大江健三郎「取り替え子」2

1.
心理成長の屈折点

二十歳前のあの二人の体験は何だったのだろう。
それをわたしは二通りのメタファーとしてとらえる。
ひとつは、少年期から性的人間への変革に伴う、心のきしみ。
もう一つは、精神の病に近接した、精神の危機。
両者はもちろん密接に関連するのでバラバラに考えていいわけではないのだが、
しかし、誰でも通る道と、精神の病に近接する危険な道と考えれば、
両者は同一というものでもない。
単に時期が近接していて、両者が混じり合うことがあると考えてもいいかもしれない。

人間は少年期にいったん完成する。小学4年生位か、男女混合クラスで、
男女の違いよりも、人間としての共通性を生きる。
男が、極めて一部の優秀な男を例示して、自分も男だから共通に尊敬を要求していいのだと言い始めて、歪んだ世界を作り出す、少し前の時期である。
建築でたとえれば、完成した一階部分に、無理な形で二階部分が建て増しされるようなものだ。
一階部分は、個体として生き延びる構造である。
二階部分は、繁殖して次世代を残すための構造である。
この時期に、いつまでも小学4年生ではいられないことの苦しみを
克服しなければならない。

また、一階部分と二階部分の接合がうまく行かない場合には、
苦しみの延長に、
この現実と、人間の精神と身体が、実は、適合していない
のではないかとの疑いが生まれる。
これはある種の精神の病の始まりを導くことになるだろう。

この現実を受け入れらないのだから、
精神の目を閉じてしまうしかないのではないか。
青年にとって世界は思ったよりもはるかに分厚い。

このあたりの事情または雰囲気を具体化したものとしてイメージできた。

2.
取り替え子の発想。
なるほど、イメージを喚起し、連鎖させるに足る、強い発想である。

取り替えられた子に、前のこと同じ言葉を教え込み、同じことを考えるまで教育するとしたら。
「だから同じ言葉を話す」とあるが、
私にはそうした共同性の地平が心塞ぐものだ。

生まれ変わり、無垢を取り戻す。
それは美しい発想である。
しかしながら、同じ言葉を入力し続けたのでは、
結果も同じではないのか。

3.
死を乗り越えるために、再生のイメージを取り出し、
当然女性のイメージを大きく取り上げることになる。
多分死はそのようにしてしか乗り越えられない。
時間軸を動かない絶対のものとして、
その軸に沿って、死滅と再生を反復する、
それは循環の世界であり輪廻の世界である。
一直線の発展発達ではない。
技術の世界の直線性に対して、
心理の世界の根本的な循環性、
あるいはそこにわずかの進歩部分を見込むとして、
心理の螺旋階段状の成長を考えている。

しかし思うのだが、そこにも、その先にも、何かの根本的な解決があるのではない。
安定した解を求めるのなら、人間は根本的に同じことを反復するのだと定義した方が考えやすい。
しかしそれでは未来は解放されない。
未来を解放してしまえば、反復からは逃れられるものの、
未来の姿を知ることはできず、結局、人間の未来を信じることは不可能である。

4.
学ぶ人、読書する人、書く「作業」に打ち込む人。
多分、強迫的に読書している。
読書の内容をコラージュして行けば、精神を編むことができて、
そこに語り口という文法を持ち込むなら文章によるコラージュ作品が出来上がる。
その産物が成果の構造をどれだけ写し取っているかに、
著者は責任を取らない。
むしろ、世界はこれを作ったのだと提示している。
それは自分は子の世界の産物であるとの信念があり揺らがないからだ。

5.
最近のスタイルをくっきりと感じる人は、
茂木健一郎と思う。
〈引用〉
自由意志の不可思議について考えた。 
 果たして、人間には未来を自由に選び取る
余地があるのか。
 古典的決定論、量子力学的確率論、
神経認知科学。非線形力学。カオス。
 諸学の成果に照らし合わせて、
自由意志はありやなしや?
 私はそもそも、未来を選び取れた
のだろうか?


 徹したロジックの人は、一見狂人に見える
のではないか。
 正気とは、精神の成分をやさしく
分離しておくことを意味するからだ。
 自由意志についての論理を貫く時、
人の精神は異界に遊ぶことになるのだろう。
〈引用終わり〉

時代が科学にここまで追いついてきたことを嬉しく思う。
こうした内容をソフトな語り口で語る人が
世間から高く評価されている社会は悪くないと思うのだ

科学者が哲学的にまた文学的に語ることは堕落だと
思われてきた
ある種の挫折だと信じられてきた

そんな言葉を並べている時間があったら
なすべきことがあるはずだと
いわれていた

そんなものは俗世間をしのぐための方法でしかない
科学の本質、知性の最上の成果に挑まずにどうするのか、
そういわれたものだ。
しかし現在はそのような一直線の進歩も信じられていないわけだし、
最先端部分での根本的な停滞も
科学者の自信を奪い去っている

そんな中で
「何を」提示するかではなく
「どのように」提示するかを
この人は芸にしていて、まさに秀逸である。
まんじゅうのあんこは同じだけれど、
つつんでいる皮を工夫し始めたのだ。