東京で学び生活することの意義

わたしは東京山手線内の暮らしが一番長い。
ついで東京近郊電車で一時間くらいの場所。
その次に長いのが地方。

比較してみると、当たり前だが、東京は情報密度が高い。
新聞やテレビで伝わる情報以上のものが東京にはある。
情報密度が高いと息苦しいという人には、
地方の方がいい。
世の中雑音ばかりが多いとの考えの人には地方がいい。

東京で学ぶことの意義はこのあたりにあるだろう。
じっくりと古典を勉強し、自らも古典作家になろうという人ならば、
東京の喧噪は馬鹿馬鹿しい。
若いうちは先輩に連れ回され、夜中まで酒を飲み、
タクシーで帰る生活。
そんな中で疲弊する人もいる。
しかしそんな中で何かを学ぶ人もいる。
いいことも悪いことも。

大学は東京という場所がいいのか、筑波くらいがいいのか、
意見があるだろう。
早稲田などは所沢とかにもあるようだし、
私立大学は八王子などに引っ越ししたところも多い。

しかし、実際に廊下で誰かとすれ違い、
誰かの講演会の看板が立ち、
誰かの展覧会が画廊で開かれ、
そんな風景を喫茶店から眺めている。
学生生活の一部はそのようなものだ。

文章を読みつつ、個人の声とか表情が伝わる。
活字の中には、聴衆の、崇拝するような態度までも、情報として含まれている。

そのように考えると、新聞、雑誌、単行本、テレビなどは、やはり、何かを思い出すきっかけに過ぎないとも思える。

私としては、その「きっかけ」にどうしてもこだわりたい。

ここまで書いたことを無にするようであるが、
私は書かれた言葉に固執する。
そのためにも、東京という環境は大切なものを含んでいると思う。

活字の嘘を知るために、と言ってもいい。

たとえば霞ヶ関を歩いて何かを感じる。すれ違う人たちはみんなまじめそうだ。
たとえば汐留から朝日新聞社を眺めて、何かを感じる。
渋谷でNHKを望みつつ、公園を歩く。
高輪で小泉さんとすれ違う。
五反田で高橋英樹のあとにゴルフボールの会計をすませる。
渋谷と丸の内で講演会の梯子をして、自慢話の脂っこさに辟易する。
外苑と東大の銀杏並木を眺めて、世の中の平和さに驚く。
毛利庭園で、ここがお天気放送の場所かと思う。
裁判所のエレベーターで乗り合わせる人たちは、
たったの15秒だとしても、うつ病以外には考えられない何かを発している。
恵比寿三越は店員があまりにも暇だ。
品川のキャノンギャラリーは受け付け嬢の椅子が低すぎて隠れてしまっている。
東京の新しいホテルはみんな国際水準で、一体庶民はどこに行けばいいのだろう。
フィットネスクラブでキムタクを横目で見ながら汗を流す。
ショーウィンドーで輝いている花々。
坪三万円でふっかけておきながら、
儲けたら8パーセントよこせという大家。ごまかす店子。
なのにサラリーマンの昼食は500円。
品川シーサイド、イーオンのお昼には、腰のない讃岐うどんが一番人気。
倹約したい人はカップ麺を食べている。
品川のプリンス系のホテルで見かけるクリスマスツリーは、
まるで群馬県の温泉である。どうしてなんだろう。それは、ニューヨーカーが客ではなく、群馬県民が客だからだ。
保守的な人たちは、群馬県的なものが品川にあることで安心するのだ。
一方で、高輪アウトバックステーキには米国人旅行客をほっとさせるものがある。
高輪のしゃぶしゃぶを高いお金を払って食べている旅行客が気の毒だ。
同じ品川でもストリングスホテルに泊まった客はセンスがいい。
仕事で出張する人の飛行機のマイレージはどうして個人につくのだろう。
マイレージでデジカメを買い換えた人の話を聞いた。
ソニーの評価が低くてがっかり。
ニコンのカメラで東京タワーを撮影している金持ちそうな男性がいた。
粗末な格好でカメラを担いで歩く、六義園撮影の一行がいた。大声で自慢しあっている。
男女で並んで撮影していて、よそ行きの言葉を交換している50歳くらいの人たちもいた。その脇を訳ありの様子で年齢の離れたカップルが通り過ぎる。
体質の深いところで、まだまだ江戸庶民だと感じる。

お金のある人はさっさと米国で教育を受けている。そんな中で、東京で学び暮らし仕事することの意義を深めたいものだ。