ひさかたの雨はふりしく思ふ子がやどに今宵は明してゆかむ

雨がふりしきっています。帰ろうにもどうにも仕方がないので
恋しく思うあなたの家で今夜は夜を明かしましょう。

遣らずの雨を強要した歌い方と紹介されている。
ひさかたの雨はふりしく はそういう意味になるのだろうか。

「ひさかた」は天に関係のある
「天」「空」「雨」「月」「月夜」「日」「昼」「雲」「雪」「あられ」などにかかる
のだが、
久方の/久堅の
というので、もともとは久しく堅い、変化しない、恒久的なもの、
つまり天とか空とかにかかるのだろう。
転じて、天気の具合などに広がったと思われる。

あめは降り敷く は現在なら 降りしきる といった言い方だろうか
「降って欲しい」とはならないように思う。

つまり遣らずの雨を強要したのではなくて、
雨にかこつけただけのようだ。
子引き、孫引きしているうちに繰り返し間違っているのではないかと思う。

そう思ってみると、
つまらない理由付けである。
そんな理由をつけられてうれしい女もいないだろう。

しかし夜に眠らせないといってくれているのだから、充分に熱烈なのだろうか。

こんなに好きだから願いが通じてやらずの雨も降ってくれたなあ と詠んで欲しかった

ひさかたの雨も恵みや今宵して恋しき人の宿ねかもせむ

ひさかたの天も雨をやめぐむべし 恋ひしき妹の紐を濡らして

くらいでどう?

今日は雪みたいな冷たい雨だよ。
傘もないし。もう帰れません。

ひさかたの雪も今宵はあたたかに 初紐の君 誓うことばも

*****
解説をひけば以下のようである。わたしにはよく分からない。「HISAKATA」すなわち というすなわちもぜんぜん分からない。なぜローマ字なのだろう?話のつながりがあるのだろうが、よく分からない。小倉百人一首の歌は、そんなに読みこまなくても、平明に考えていい歌ではないか。

「ひさかた」「の光」とは「HISAKATA」すなわち「照る/曇るをしばらく繰り返していたが、結局、照ることになった」「そういう光」をいうのである。すると「の」の意味では、現代で言う「久しぶりの雨」がこれと一致する。「ひさかた」の起源的な意味としては上記の通りだが、やがてそれは忘れられ、わからぬまま枕詞というような変な分類が行われるのである。しかし「ひさ」は「結局照ることになるまでの時間の経過」をいうようになり、更には「久しい」という意味になって現代に残る。

一方「かた」は「おおかたは・・」「・・以来このかた」という言葉になるが、これは「事は発生した状態のまま変化なく」という意味であり、「ひさかたの」の「かた」の意味を受け継ぐものである。「ひさかたぶりの晴れ間」というように、そのまま使う現代人もいるが、これは既に「ひさしぶりの」と言う意味になってしまっていると考えるべきであろう。起源的には「ひさかたの晴れ間」でよいはずだ。

同じく小倉百人一首に「わたのはら漕ぎ出て見れば久方の雲居にまがふ沖つ白浪」とある。ここでの「ひさかた」は「結局曇りとなった」事を言うのであり、「照るかとも思って船を出したが、結局は曇ってしまった、そのような空(水平線)に白波がとけあう様も意外に良いではないか」これが歌の真意である。
ここでは「ひさかた」という言葉が歌の重要なキーワードになっているのだ。だから「秀歌」なのであって、もし「枕詞」などという分類を当ててその「意味」を葬るならば、この歌の価値は半減するであろう。