なべて薄きもの

感覚は洗練されたほうが楽しい。

中国に、お茶の原木がある。
その木を守って生きている民族がある。
彼らは普段さぞかしおいしいお茶を飲んでいるだろうと想像する。
しかし彼らはただの水を飲んでいる。
貧しいからと言ってもいいが、感覚の洗練である。
代々、飲み物に格別の注意を払い、結果として、真水である。

お茶を入れたとして、どんどん薄くしていって、最後には、
茶器の中には白湯、その中に分子一個だけ、お茶が入っているという状態を味わうことができる。
大部分は白湯で、「おっ、いま、茶が一個通った」と喜ぶ。
そのような洗練。

似たような例で、
モーツァルトのクラリネット五重奏曲がある。
はじめは普通に聴いているのだが、
次第に薄く薄くしてゆく。
つまり、音量を絞る。
ついに、ほとんどゼロに近い音、
時折クラリネット音のかけらが聞こえるような気がする、という程度まで絞る。
頭の中で響いているのか、空気が響いているのか、ついに区別できない。
そのときまさに理想のモーツァルトが完成している。

何にでも醤油をかけて
顰蹙を買う人にだけはならないようにしようと思う。