不屈の男、マケイン、その半生

ジョン・マケイン。共和党大統領候補。
党派にとらわれない議会活動で知られ、しばしばmaverick(一匹狼)と形容される。
共和党政権への厳しい批判も辞さない。敵も多い。

著名な海軍提督の祖父と父をもち、マケイン自身も海軍航空士官としてヴェトナム戦争に従軍。
1967年に北ベトナム上空を飛行中に追撃され、
5年間に渡って捕虜となり、
最初の2年は厳しい拷問を受けながらも耐えた。
彼の息子は海兵隊員となっている。

レスリングで2つのレター表彰を受けた。
激しく議論好きな気性。
小柄であったがライト級のボクサーとして3年間戦った。
パイロットとして、テキサスでの演習中に墜落したこともあった。
スペイン上空を低く飛行しすぎ、送電線に激突するも無傷だったという出来事もあった。

1967年7月29日に起きた出来事で危うく死ぬところであった。その日、クルー達が発射の準備をしていたところ、F-4から一発のズーニー・ロケット弾が誤って発射されてしまった。出発準備を整えていたマケインの A-4にロケット弾が直撃し、燃料タンクの破裂を引き起こした。事が起こってから90秒後に彼の機の下についていた爆弾が爆発したが、彼はその前に間一髪で機から逃げ出すことが出来た。彼は爆弾の金属片で足や胸に怪我を負ったが、この事故で132名が死亡、62名が負傷、少なくとも20の航空機が破壊され、事態が沈静化するまでに24時間を要するという大惨事となった。


1967年10月26日、マケインはハノイの火力発電所の攻撃に参加した。
マケインの乗ったA-4はS-75によって撃ち落とされた。
マケインは両腕を骨折し、飛行機から脱出の際に足にも怪我を負った。
パラシュートで脱出したものの、Truc Bach Lake に落ち、あやうく溺れるところであった。
マケインが意識を取り戻してみると、彼の周りには暴徒が集まっており、
彼を叩いたり蹴ったり、服を引きちぎったりしていた。
またライフルの台尻で肩を砕かれたり、銃剣で左足や腹部を突かれるなどした。
マケインはその後、ハノイの刑務所に搬送された。
重傷を負っていたにも関わらず北ベトナム側は彼を病院に連れて行かず、
いずれにしろすぐに死ぬだろうと考えていた。
北ベトナム側はマケインを殴打し尋問したが、
彼は自分の名前、階級、認識番号、生年月日しか明かさなかった。
その後北ベトナム側はマケインの父親が海軍大将であることを知り、
彼に医療処置を施し、マケイン捕縛を公表した。
マケインが撃ち落とされて2日後、この出来事はニューヨークタイムズ紙のトップ記事となった 。


マケインは6週間の間病院で最低限の治療を受け、
またヴォー・グエン・ザップを始めとする多くのベトナム人の監視の下、
CBSのリポーターからインタビューを受けた。
多くの北ベトナムの人々は、マケインは政治的・軍事的・経済的なエリートであると思っていた。
その時点で50ポンドも体重が減り、ギプス姿で髪の毛も白くなっていた。
1967年にハノイの戦争捕虜キャンプに送られ、
他の二人のアメリカ人捕虜とともに監房に入れられた。
二人はマケインが1週間持つとは思っていなかったが看病し、マケインはなんとか生き延びた。

1968年3月には独房に監禁され、そこで2年間耐えた。
1968年7月、マケインの父親はアメリカ太平洋軍の司令官長となり、
ベトナム戦域すべてを指揮する立場となった。
それに伴いマケインはすぐに釈放されるチャンスを与えられた。
北ベトナム側はそれによって、自分たちの部隊は人道的であるという
プロパガンダを世界に広めたいと考えていた。
しかし彼はアメリカ軍の行動規範” first in, first out” にしたがってこれを拒否、
自分より早く捕縛されているものが釈放されるなら受け入れるとの態度を示した。
マケインの釈放拒否はパリ協定の話し合いの場で
アメリカ側の大使W・アヴェレル・ハリマンに伝えられた。


1968年8月、マケインに対する拷問が行われた。
痛みを伴う姿勢で縛られたり、2時間ごとに殴打されるなどし、
更に赤痢にもかかってしまい、辛さ故に自殺を図るも看守に止められた。
4日間の拷問の後、マケインは、
自分は “black criminal” で “air pirate” であると書かれた反アメリカプロパガンダの”告白”にサインさせられた。
しかし彼は形式ばった共産主義の専門用語を使ったり、文法を無視して書くなどして、これは強制されたものであることが分かるように書いた。
彼は後にこう語っている。「私は学んだ。すべての人に限界点があるということだ。あのとき私は自分の限界点に達した。」
この時に受けた傷が元で、彼の腕は頭より上に上がらなくなってしまった。
北ベトナム側はもう1つの文書にもサインさせようとしたが、
マケインはこれを拒否し、その結果殴打が続くことになった。

1969年10月、マケインを始めとする戦争捕虜に対する扱いが突然改善された。
同年夏、殴打されるなどして弱っていた捕虜たちが釈放され、
世界の報道機関がこれに対して声を上げ始めたためであった。
1969年12月、マケインは Hoa Loa Prison に移送された。
彼は引き続き反戦団体や北ベトナムに同調するジャーナリスト達との面会を拒否し、
面会者の一人に対して、自分のしたことに後悔は無く、
同じ事をする機会があれば同じことを行うだろうと語った。

結局、マケインは北ベトナムの捕虜として5年半を過ごしたことになる。
1973年1月27日にパリ協定が結ばれ、
アメリカ軍のベトナム戦争への関与は終わった。
捕虜たちに対する救出作戦(Operation Homecoming)はその後も続いた。
マケイン自身は1973年3月15日に釈放された。

2000年大統領予備選ではヘンリー・キッシンジャー元国務長官や
ゲイリー・バウアー牧師などがマケインを支持していた。
選挙戦において、ベトナムに行く代わりに州軍に入ったブッシュが
「彼は(ベトナムでの)長い捕虜生活で頭がおかしくなっている」と侮蔑し問題となった。
退役軍人に広く支持されている。
違法入国者の永住を認める法案を民主党リベラル派のエドワード・ケネディ上院議員と共同で提案し、
成立させられなかった経緯もあり、
不法移民の合法化に及ぶと、一部から激しい罵声が浴びせられる。

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マケインが頑張るなら、
わたしも頑張ろう。
勇気をありがとう。