耶蘇教の根本矛盾・摂理

教会では、神の摂理をまず教えられる。
最近はどうか知らないが、
若い頃、最初の結婚式のため、
教会に何度か行って勉強した頃は、
すべては神の摂理と教えられた。

仕方がないので、神父さんに、
この世の悪もすべて神が計画しているのか、
すべてが摂理ならば、人間は何を意図してもしなくても、結局関係ないのではないか、
などと、答えられないことを敢えて聞いてしまい、
神父は、あなたはよく考えている人だ、
これからも考え続けて生きなさいとかわされ、
多分、こんな質問が多くて、
いつもこんな風に答えているのだろうと思ったものだ。

今になって思うが、
やはりすべては神の意図したことであり、
すべては摂理の通りに動いているとと思う。
それは普遍的な物理法則がすべてを支配しているといっていいし、
人間の考えの及ばないところで、神の意志は貫徹されているとも思う。

無限の配慮を人は知ることができない。
神も、神の配慮も、人には不可知である。

そして、すべては予定調和の原則に従って動いている。
善なる神と、
その欠如である悪とは、
本来何の関係もないのであるが、
神は自分の意志を貫徹し、
悪は神の意志の欠如を現実化することによって、
結果として、全く同一の世界を結実する。
それがわたしの考える予定調和である。
可能な状態はひとつしかない。
ライプニッツのモナドはここではあまり関係がない。

耶蘇教は、Jesus の発音に対する中国語の当て字。「耶」は、父を意味し、「蘇」は、蘇(よみがえ)るの意味。耶蘇で,キリストの復活を意味する漢字となる。