平等の感覚と格差と改革

苦しい人たちは団結して励ましあう
苦しいのは自分だけではないと考えれば耐えられる

たとえば、戦後すぐのように、
「アメリカは幸せだ、
日本は不幸だ、
みんなで頑張ろう」と
考えられれば、少しはいいのだが。
アメリカとの格差はあるが、
日本人としては平等の感覚がある。

名古屋だけが儲けていて、
愛媛はだめだと考えられるなら、
一致団結もできるし、
毎日暗い気持ちになることもない。

同じ町内に格差があり、
同じ会社に格差があり、
同じ血縁内に格差がある。
あからさまに見えてしまうので、
そのことが気持ちを暗くさせる。

格差があって当然だと思いたがっているのが
自由競争主義である。
改革というのは格差があってもいいという主義なのだろう。

たしかに
ぬるま湯に使っている人たちの既得権益を奪う改革は必要だが、
それと同時に、
努力しても報われない人を増やしてしまう結果になっていると思う。

努力した人はなるべく報われるようにしようと考えると、
ぬるま湯部分ができてしまう。

そうしたことのようだ。

理想的な制度ができれば一番いいが
そのような知恵はない。

妥協点を見つけるとして、
どの程度の格差が適切なのか、
富裕層と貧困層の間に、共感がない。