成田善弘「精神療法家の仕事」より―11

神経症水準の患者
頭痛とか不安発作とか手洗い強迫とかの明確な主訴を持ち、
その解消を治療者に依頼する。
治療者との関係を主訴解消のための手段と考えることができる。

境界水準の患者
主訴が不明確で漠然としている。
不安を限局して自我異質的な症状として主観的に悩むという能力に乏しい。
「自分がない」「居場所がない」「救われたい」などと言う。
治療者との関係を手段視することができなくて、それ自体を目的としてしまう。治療者との人間関係を持ちたいというのが彼らの望んでいることである。

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散髪に行ってもタクシーに乗っても、
世間話や身の上話は無用なのであるが、
多少の話は役に立つこともある。
散髪の席で、またタクシーの座席で、
「私は死にたい」とか「何のために生きているのか分からない」「もう自分がなんだかわからなくなった」などと言われても、それはそれで愚痴の一部として流して置けるわけで、散髪したり、目的地に着けば、それでお互いに忘れることができる。
散髪の用もないのに床屋に行って、「何のために生きるのか」などと言うようなら、相手にされないはずだろう。
ところが精神療法の場合はこれで充分に大切な情報になる。そのような事をしたがる人たちを一群のものとして観察している。

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精神療法の場合には多少の話は周辺的な情報として役に立つことがあるので、治療者としても、話しを拾い上げる。しかしそのうち、患者の側では治療者に会うこと自体が目的になってしまうことがある。つまり、面接は、症状を治すことと、治療者に会うこととの、二重の目的を達成していることになる。そうなって初めて、その患者特有の人間関係のあり方が明らかになる。

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そして、さらにその奥のことを考える。こうした奇妙な事をするのはなぜだろうか。このような奇妙な事をして、患者に何の利益があるのだろうか?たとえば、治療者と仲良くしたいのならば、普通の意味で仲良くすればいいのであって、「死にたい」とか「あなたは悪い治療者だ」などと言ってまとわりつくのでは、仲良くしようと思っても、できるものではない。しかしながら、仲が悪いながら、奇妙な人だと思いながらも、面接は続く。これは友達ならばありえないことで、上司・部下とか、夫婦とか、患者・治療者とか、暫定的ではあっても、関係を続けることを前提とした上での、ネガティブな関係である。そのようなおかしな関係を強要する人たちがいるものだ。好かれたいならそんなことをするはずがないし、嫌われたいと思うくらいなら離れていけば合理的だと思う。
離れないで嫌われるようなことをして、お前は夫だ、上司だ、治療者だ、それでいいのかと居直る。

ボクシングのクリンチのようなもので
どうも具合が悪い。
けんかしながら、煩いの元となりながら、それでも関係は維持したいらしい。
そのあたりが謎である。
けんかしながらも、離れたくない。
そのような人同士であればそれもよいが、片方がそれを望んだとしても、もう片方がそのような関係を望まないとしたら、不幸なことだ。しかしそれでも、会社、夫婦、治療という枠組みがあるので、壊れないですんでいる。

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患者・治療者でいえば、
症状を治す、会う、の二つの目的と言うことになるが、
上司・部下の関係で言えば、仕事をすることのほかに、個人的な負担をかけることだ。
夫婦で言えば、夫婦でいることのほかに、過剰な負担を強いることに、目的と喜びを見出しているようである。
純粋な友人同士ならば、それで終わってしまう関係であるが、会社、夫婦、治療の関係であるから続く。そうした場所で病理を発展させる。

見捨てられ不安が強いので、見捨てられることはない立場を確保することに必死になる。

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境界水準の患者さんには、治療目的が何であるか、確認を続ける。
元々は、症状を主訴として、治療を開始したのだということを確認して、

再スタートする。
その最初の地点を忘れてしまい、途中の問題に係わっていると、いつまでも関係は終わらず、それが結局、患者の望む、いつまでも続く関係になってしまう。

そんなことでいったい誰かが幸せになるのか、考え直す必要がある。