成果主義の失敗は「当然の帰結」チャールズ・オライリー

最近、ビジネスの思想としても、米国の「安値」が続いている
本当に「日和見主義」
この人たちは結果に責任を取らないのだから。

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成果主義の失敗は「当然の帰結」チャールズ・オライリー
米スタンフォード大学経営大学院教授に聞く 2008年7月12日 土曜日

 成果主義型の人事評価制度を導入した日本企業の多くで、職場のチームワークが崩壊するといった弊害が生じ問題となっている。

 だが、成果主義の“本場”である米国で人事マネジメントを研究してきたオライリー教授は、日本企業が問題に直面したのは当然で、驚くことではないと言い切る。

 米国企業でも好業績の企業は必ずしも成果主義を信奉していないと指摘。職場の一体感を取り戻すため、ビジョンや価値の有用性に再び目を向けるべきだと主張する。

 私は以前、『隠れた人材価値』(原題:Hidden Value、翔泳社)という本を書きました。その中で紹介した教訓の1つは、人事に関連するすべての制度を調和させなければならないということです。

 何か特定の制度だけを単独に扱ってはならず、一連の制度の組み合わせとして見ることが必要です。1つの特定の制度を「これこそ我々が今、取り組むべきものだ」と考えて採用しても、それが人事のシステム全体にフィットしなければ、企業は危険な状態に陥ります。米国企業も例外ではありません。ですから、日本企業が成果主義を取り入れて様々な問題を招いたとしても、驚きませんね。

 もう1つ強調したいのは、すべての米国企業が成果主義を信奉しているわけでは決してないということです。もし仕事の内容が、複数の人が相互に協力しながら取り組んだ方がいいものだった場合、個人に報いる厳格な成果主義を導入すればチームワークが損なわれてしまうのは想像がつくでしょう。

ビジョンがお題目に終わってしまう理由

 米国のいくつかの企業で業績が好調に推移している秘訣は、特定の人事制度にはありません。すべての制度を連携させていることにあります。企業にとっては人事よりもビジネスの方が大切です。まずは経営戦略を明確にして、戦略を実行するためにしなければならないことを考える。それから戦略を成功させるのに適した人事制度の組み合わせを設計すべきなのです。ここで言う人事制度には、評価だけでなく、インセンティブ(動機づけ)や仕事の設計など一連の制度が含まれます。

 ところが現実には、戦略やその成功条件に適合したものであるかどうかを考慮することなく、特定の新しい制度を導入してしまうことが少なくない。成果主義型の人事制度を導入した日本企業の中にも、米国企業を見て「彼らがしてきたことを我々もすべきだ」と安易に考えた会社が少なくなかったのではないでしょうか。経営戦略を練ることもなく、ほかの人事制度と調和するかどうかを検討することもなくです。

 なぜ特定の制度だけを取り入れようとしてしまうのでしょうか。具体例を基に考えてみましょう。米サウスウエスト航空は、34年にわたって増収を続けています。1978年の規制緩和に伴って新規に参入した航空会社は100社を超えていましたが、ほかの会社はほとんど消滅してしまいました。

 多くの会社がサウスウエストのビジネスモデルを真似しようとしました。しかし、サウスウエストにはなれなかった。なぜでしょうか。同社の特徴的な仕組みを1つか2つ取り入れるだけで、ビジネスモデルのすべてを自分のものにしようとしなかったからです。

 成果主義だけを取り入れようとしたのと同じ過ちを犯したわけです。それも無理はないのかもしれません。企業の経営陣はすべてを吸収するのに必要な忍耐力を持ち合わせていないことが多いのですから。

実践してこそ価値あり

  サウスウエストやシスコシステムズ、ソフトウエア大手のSASインスティチュートなど、『隠れた人材価値』で取り上げた好業績の米国企業には1つの共通点があります。それは価値を持つだけでなく、それをきちんと実践していることです。

 ここで言う価値とは、ビジョンや理念といった言葉に置き換えられるものです。数年前に実施した調査では、回答を寄せた米国企業の8割が、「意思疎通」「尊敬」「誠実」「チームワーク」といった価値を掲げていました。しかし従業員に聞くと、それらの価値はお題目にすぎないとの答えが返ってくる。

 価値そのものは、単なる言葉にしかすぎません。それを経営戦略上、有用なものにするには、特定の行動として具体化することが必要です。好業績を上げている企業は、価値を具体化した特定の行動を人事評価や採用、研修の基準に組み込んでいる。ここまですると、価値は抽象的なものではなくなり、意思決定のベースになります。

 ここまで至らない会社では、経営幹部がミーティングなどで価値を唱えるだけに終わっている。それでは、従業員たちは自分にとってそれらの価値がどのような意味を持つのかが分からない。価値を有意義なものにするには、人事制度に組み入れることがポイントなのです。

 価値がお題目に終わってしまう理由はこれだけではありません。もう1つの理由として、管理職が価値の実践を貫徹できないことが挙げられます。米ゼネラル・エレクトリック(GE)の前会長兼CEO(最高経営責任者)であるジャック・ウェルチ氏は、「管理職の大半が価値で失敗するのは飽きてしまうからだ」と述べています。

 同氏によると、ビジョンや価値を部下に浸透させるには、上司である管理職が、部下が飽き飽きするほどそれらの意義を繰り返し説くことが必要です。同じ話を何度もするわけです。米IBMの前CEO、ルイス・ガースナー氏と昨年、あるパネルディスカッションで同席した時に彼も同じことを言っていました。「吐きたくなっても、価値について話し続けなくてはならない」と。

価値は文化と同じではない

 よく混同されますが、価値やビジョンは必ずしも文化とは同じではありません。文化は社会的な規範が積み重なってできたものです。規模が大きく複雑な組織においては、組織を横断して同じ文化を持つことは合理的ではありません。例えば、ある日本のメーカーが大阪に研究開発センターを持っていたとしましょう。そのセンターの文化は、米国の販売会社のものと同じでしょうか。むしろ異なっているのが自然でしょう。

 このように異なる文化を内部に抱えている企業で、従業員を束ねるにはどうしたらいいでしょうか。ここにビジョンや価値の役割があります。文化は異なっていても、その基礎に経営戦略に合致したビジョンや価値があることによって、従業員をまとめ
ていくことができるのです。

 具体例を挙げましょう。米ジョンソン・エンド・ジョンソンには「クレド(我が信条)」という企業理念があります(参考記事)。クレド自体は、米ニュージャージー州にある本社でも、中国にある工場でも一緒です。しかし、文化は異なる。そうあって然るべきなのです。思慮の浅い経営者は「全社的に同じ文化を持たなければならない」と言うでしょうが、それは誤りです。

 同社のクレドは、管理職が特別な意思決定を行う必要に迫られた時に、拠り所となる一連の価値を提供してくれます。いわば、クレドは同社で働く人々にとって“北極星”の役目を果たしているわけです。新規事業を立ち上げる時も、解熱鎮痛剤の「タイレノール」や「ベビーシャンプー」といった定番商品の販売においても、クレドは役立っています。

 もしクレドのような本物ではなくお題目の価値しか持っていないとしたら、従業員たちは会社に一体感を持てないでしょう。かつての日本企業では、社員が会社に一体感を持っていたはずです。もっとも、これには問題がないわけではありません。一体感を優先するあまり、多少の問題には目をつむりがちになるからです。しかし、最初に一体感を持つことは大切です。重要性が失われない限りは一体感を生み出すよう努めるべきです。

 どんな従業員であれ、自分のしている仕事が重要であることを実感したがっているものです。その有力な手段の1つは、ビジョンや価値に照らして部下の仕事が有意義なものであると上司が伝えてあげることです。「一生懸命に働けば、給与が増える」と言われるだけでは、長く働き続けることはできません。自分のしている仕事の重要性を実感してもらい、働く意欲を持ち続けてもらうためにも、価値やビジョンは大切なのです。

 日本企業の多くは今、従業員の会社に対する忠誠心や愛着が薄れるという問題に直面しているそうですね。こうした状態を改善するにはどうしたらいいのでしょうか。1つのカギは、将来の経営幹部を育てるのか、それとも社外から探すのか、どちらを選択するかです。

 米国企業の多くが選んでいるのは、後者の社外から探す方です。それは可能なことですが、社外から雇い入れた人が忠誠心を持ってくれるとは限りません。一方、成長するための機会や課題を自社の社員に与えて、将来の経営幹部へと育成することには、大きな利点があります。まず、社員は会社のことをよく知っている。さらに会社に忠誠心を抱いていることも多い。

 社員を育成する方を選んだ場合、しっかりと人事制度を作る必要があります。もし育成した社員を会社に引き留めることができなかったり、育成に努めても社員の能力が向上しなかったりしたら、元も子もありません。相互に補完し合う一連の人事制度が必要なのです。

 しっかりとした人事制度の構築を企業の経営幹部は真剣に検討すべきですが、実態はそうなっていません。米国企業の経営幹部の多くは「まずは経営戦略だ。人事のことは後でいい」と考えがちなのです。しかし、もし企業に成功をもたらしている要因の1つが、社員の会社への忠誠心や愛着にあるのなら、そうした社員を育てて引き留めることを保証してくれる人事制度がどのようなものかを熟考する必要があります。

米国の優良企業の方が日本らしい

 日本企業で社員の会社に対する忠誠心や愛着が薄れている背景には、恐らく米国流になりすぎてしまったことがあるのではないでしょうか。

 社員に忠誠心や愛着を持ってもらうという点で、かつての日本企業は優れていた。米国企業の方がそれを見習うべきでした。もっとも、すべての米国企業が、経営幹部を自社で育成せずに社外から探そうとしているわけではありません。私が同僚と一緒に書いた『隠れた人材価値』(原題:Hidden Value、翔泳社)で取り上げた米国企業は、社員の育成に力を入れています。社員の側も会社に忠誠心や愛着を持って働いている。日本の方々が読めば、「まるで日本の会社のようだ」と感じるはずです。

 経済のグローバル化が進み、大企業では様々な国の出身者が同じ職場で働くようになっています。それに伴ってチームワークの重要性も高まっています。

 ただし、異なる文化を持つ人々がお互いを理解するのは簡単なことではありません。日本企業だけでなく、どの国の企業も異文化の壁に突き当たって失敗してきました。しかし、失敗から教訓を引き出して徐々に異文化への理解を深めてきたのです。

 最近、インドのIT(情報技術)大手インフォシスの創業者であるナラヤナ・ムルティー氏がスタンフォードを訪れ、興味深いことを述べていました。インフォシスには、米ジョンソン・エンド・ジョンソンの「クレド(我が信条)」に相当するような企業理念があります。社員が共有すべき価値として、イノベーティブであることや誠実さ、チームワークなどを掲げている。

 ムルティー氏によると、これらの価値は国境を越えて受け入れられる。しかし、価値を実践に移すのが難しいそうです。異なる文化を持つ外国で価値を実践するには、管理職がその難しさを理解したうえで慎重に進めることが必要です。

社長候補はCFOよりCHRO

 米ゼネラル・エレクトリックGEの前会長兼CEO(最高経営責任者)であるジャック・ウェルチ氏はかつて、「人事部門の責任者はCFO(最高財務責任者)と同じくらいの権限を持っているか」という問いをよく投げかけました。これをよく考えてみてください。かつての日本企業では、人事部が強力で、その責任者、米国流に言えば、CHRO(最高人事責任者)がとても大きな権限を持っていたはずです。人事部のトップを経験した人が社長の有力な候補にもなった。

  米国ではそうしたことはこれまでほとんどありません。CFOが常にCHROよりも強い権限を持ってきたのです。これは間違いだとウェルチ氏は指摘したわけですね。CFOの仕事は詰まるところお金の勘定です。一方、CHROは従業員が経営戦略を確実に実行することに責任を負います。

 ですから、CHROはいきなり人事から始めてはいけない。まずは戦略からスタートし、戦略を実行するために社内の人材をどう生かすかを考えなければなりません。それには戦略において何をしなければならないかを明確にする必要があるし、導入すべき人事制度がどのようなものかを明確にする必要もある。

 それも、特定の人事制度ではなく、一連の人事制度の組み合わせを検討する必要があります。それも、短期的な視点ではなく長期的な視点で、です。『隠れた人材価値』で取り上げた米国企業の多くは、これらのことを実
践しています。

人事部はもっと戦略的になるべき

 米国の企業では、人事部門の役割や形態が変わり始めています。給与の計算や研修といった日常的な業務の多くが社外にアウトソースされているからです。それに伴って、人事部門の規模はどんどん小さくなっています。そして「我々の付加価値は何なのか」と自問するようになっている。報酬を決めたり、人事異動を行ったり、研修を施したりといった業務がなくなったら、人事部門には残る業務は何なのかというわけです。

 最終的には、人事部門がより戦略的な部門にならなければいけないと私は見ています。企業の経営戦略の変化に応じて、それに合致するものに人事制度を変革していくことが主要な業務となる。ただし、そうした戦略的な部門に変貌するには時間がかかります。それまで人事部門は縮小し続けるでしょう。