脳の欠落を満たすものとしてのゲーム

人間の脳は生まれたばかりの時には欠落がある
その欠落部分に
生まれた時の周囲の環境を入力して
環境に適応した脳を作る
だから人間は環境適応能力が高い。

ムーミン谷に生まれればそこに適した脳になる
鬼が島に生まれればそこに適した脳が出来上がる

環境は半分は自然法則であり半分は文化である
子供は遊んでいるうちに自然法則を体得し人間の文化を取り込む
そして脳の欠落は埋められる

欠落部分に
ゲームをはめ込んだら
どんな人間ができるのだろうか?
その答えが
最近はちらほら登場している

欠落しているといわれる
大切なもののひとつは言語である
これは言語を習得する基本モジュールはあるものの、
具体的な内容は白紙ということで
どんな言語でも学べるということの理由になっている

逆に、どんな言語でもこの基本モジュールのプラットホームの上に成立しているので
その部分は共通だということになる
普遍文法という

言語は複数入れることもできるが
どうも母語として入るのは一つで
他は外国語としての扱いになるらしい

脳の欠落のもうひとつは性の部分といわれている
一般に動物は学習することなしに本能だけでセックスができて子孫を残せる

人間はそうではなくてある程度は本能である程度は学習といわれている
したがって文化的情報の全くない状態で
どうなるかといえば
一応妊娠はできるだろう
しかしいわゆる性生活というものは難しいだろうということになる
性的ファンタジーの共有であったり差異の発見であったりするわけで、
そのようなプロセスは動物にはないだろうと思う。
発情期に本能プログラムに従って発情して決まりきった行動をする。

人間が印刷物、ビデオ、ブルーレイ、パソコン、ネット、携帯など
次々に進化させて来ているのも、
一面では性的欲望が牽引して来ている側面がある。
そして不思議なことに、そのどれも、現実に妊娠して出産に至ることはないものである。

このことは、性本能の欠落部分に、
予想しなかったものが挟み込まれた状態であり、
現代人の精神性生活は複雑なものになっている。

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そんなわけで、子供の心の欠落部分にゲームががっちりと入り込むわけだが、
これがいいことか悪いことか、難しい。
いいゲームと悪いゲームがあるといえば、
まったく困った結論である

もう少し考えてみると、
子供の心は欠落部分を補充するために体を使って自然法則を学び
人と付き合って心理学を学ぶ

そのような意味でゲームは子供の先生になることができるかということである
ゲームのなかにも確かにひとつの世界はあり価値観があり法則がある
しかしそれを学んだところでなんの役に立つのか?
そのように問うことができるはずだ

昔からのゲーム、すごろくとかトランプ、将棋はどうだろう。
他人とのゲームだからいいだろうか。

詰め将棋が好きな子がいて、
ずっと詰め将棋ばかりしていたら、
どうなるだろうか?

多分、詰め将棋は、ビデオゲームのような興奮をもたらさないので、
古いタイプのゲームに属するのだろう。
詰め将棋で興奮がどんどんエスカレートするとも考えられない。

ビデオゲームのなかには世界のモデルがあるか
そこがポイントだろう

無論、有益な世界モデルはそこにはないのであって、
学ぶには足りない。
脳の欠落部分をゲームで満たしてしまうとしたら
大きな間違いであろう。

ゲームで満たしたとしたら
本質的には何も満たしたことにはならず
欠落したままだということになる。
欠落を抱えたままで人生を生きる人があまりに増えて
欠落が「普通」になったとき、社会はどうなるのだろうか。
そこの予測がつかない。