リアルとバーチャルの境界

リアルとバーチャルの境界も考えてみると曖昧である

リアルの代表はたとえば食べ物だ
コンピュータ画面を見ていても満腹にはならない

しかし本当にそうかといえば
脳が動き始めるとずいぶんとバーチャルになってしまうようだ

たとえば目の前にある食べ物がおいしいのかどうか
それは脳にインプットされている情報によってずいぶん違う
いつでも新しいごちそうがあり
新しい健康食品があり
それをありがたがっているのだから
かなりの部分はバーチャルなのだと思う

無農薬とか有機栽培とかという表示も
素人が思うようなものではなくて
無農薬と表示していい期間、種類が決められていて、
その範囲内で農薬がたっぷり使われている。
これはバーチャルというより言葉の取り決めの問題か。

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リアルな対人関係とバーチャルな対人関係といっても、
境界がはっきりしない。
中間に何か介在すればバーチャルなのか、
コンピュータなら、手紙なら、どうなのか。
複雑で間接的でも最終的には向こうに人間がいるならやはりリアルなのか。

最近あるような大衆宗教はかなりバーチャルなものになっていて
昔のような人格と人格の接触というような伝道ではないようだ

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脳の都合からいえば、
実際に楽器が鳴っていても、スピーカーやイヤホンから出ている音でも、
たいして変わりがない。
全然違うという通の人もいるが
その場合でも、境界を限りなく曖昧にすることはできる。

夢と現実の境界は昔からいわれていることで
難しい。

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心理的なことが現実の身体的病気を引き起こすというのは
むかし心療内科の第一ページに書いてあるようなことだった。
リアル、肉体、脳、心理、バーチャル、と並べることができるかもしれない
しかしやはり境界は曖昧である

心を傷つける言葉がバーチャルとも思わない。それはリアルだ。
時間も場所もエネルギーも指定できる。

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典型的にはたとえば映画をバーチャルな体験というのだろうか。
宇宙旅行をして爽快になったり不安になったり冷や汗をかいたりどきどきしたりする。
脳の体験としていえば、リアルとバーチャルを区別することは特にないと思う。
バーチャルの質が悪いときにはリアルに遠いのだろうけれど、
それはたとえば近眼の人がめがねを忘れて観光旅行に行ったらどうかというようなもので、
いずれにしても、体験であるには違いない。

子どものごっこ遊びでもリアルな対人関係はあり
それに重なる形でバーチャルな対人関係がある。
ごっこ遊びの方が現実の社会生活よりも複雑かもしれない。
取り決めた役割をこなしているのだから。

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暫定的に定義すれば、
脳の内部の変化が予想する外部の変化が外部に起こっているならば、リアル。
起こっていなければ、バーチャル。
街が燃えたと脳は感覚していても、実際に起こっているのはスクリーン上の光の明滅であるなら、
それはバーチャル。