集団の中でどの位置を占めたいか

人間の性格を描写するとき、
絶対値で表すことができる。
優しいとか乱暴だとかけちだとか。

しかし人間の性格を
集団の中の相対的な位置で示すことができる。
たとえば集団内で上位10%の倫理的傾向を示す者。
集団内で上位10%の暴力的傾向を示す者。
要するに他人よりもどうでありたいかで示される傾向。

この方式で言えば、敬虔な傾向を持つ人たちが集まるカトリック教会内部では
敬虔さはより深まることになる。

土地に定着する農民の場合だと
その土地でつきあう範囲内での
暴力の程度とかおどけ者の程度とか激しい愛の程度とか
上位5%としても、まあまあの範囲に収まる。

しかしこれが都市生活者になり流動性が高まると
暴力的な傾向のある人たちはお互いを認知するようになり、
その中での5%を目指す。するとかなり凶悪になる。
その他の傾向についても同様で、都市生活者は性格全般にわたり、極端になる。

そしてネット社会になると
たとえば鉄道が好きという人たちはすぐに集まり、
現実の交友範囲では考えられないような鉄道好きが集合してしまう。
その中でさらにマニアでありたいと思う情熱がわいてきて上位5%を目指す。

集団内で上位5%のおどけ者という基準を農村、都市、ネット社会と拡大して考えると、
次第に性格が極端になることが分かる。

お互いの性格傾向や特性を認知する基礎集団が大きくなるに従って
さらにネット社会のように特性を検索しやすくしてある社会になるに従って
性格は極端になる

こうしてみてくれば、性格傾向を絶対値で考えるのではなく、
集団内でどの位置を占めたいかの傾向と考えると、
ネット社会になっていろいろな極端な性格や考え方が出てくるようになったのも理解できる。

飲み屋で
俺なんかこんなに遊んでいるとか
こんなにだらしないとか
こんなにバカだとか
比べ合っているのだが
それはこの集団内での位置づけだ

その比べ合いが全国規模で検索機能付きで機能しているのだから
大変なものだ

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傾向と言っても、どのくらい知能が高いかとか、マラソンが早いかとか、
そのようなことは相対的な基準にはなじまないし
上位5%を目指したとしても可能な人は限られている

一方、平均よりも極端に知能が低いとか、マラソンが遅いとかは、相対的なもので
意図的に振る舞うことができる。
危険なことをする傾向とか、新奇なことをする傾向とか、そんなことは
他人よりの少しすごいことをやろうと目指せばできないことではない
能力の問題ではないからだ
他人のまねをしてもうすこし極端にすればいいことになる

上位5%になりたいという傾向で将棋が強くなるわけではないが、
自分がどのくらいワルであるかについては、他人との比較で行動している場合が多い

刑務所で自分がどんなにワルであるかを自慢し合い
そこで順位を決めるのでたいていは自分などまだまだ甘いと思って出所するという話はある

刑務所に入ったからワルなのではなく
刑務所を出たからワルになっているという事情もあるのかもしれない

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薬物とか性癖とかもそのあたりのちょうどいい練習問題なのだろう
度胸があることを誇示したいことが最初の動機かもしれない
しかしその環境で上位5%の度胸を試しているとどんどん大変なことになる
精神に変調を来したりエイズになったりしてしまう

そのような練習問題はいくつもあって
映画とか小説の中で好んで取り上げられることもあり
また極端さを拡大することになる

その意味では老子の言う小国寡民が一番いいことになる
小国寡民ではバカにも嘘つきにも程度がある

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集団内で上位5%の度胸というよりも
下位5%の度胸というべきかもしれない

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ネットでは極端な人が集まっているのではなくて
人よりも極端になりたい人が集まっているので
ポジティブフィードバックがかかってしまう