新国立美術館にてピカソ展-5

ピカソの絵はばらばらで部分ごとに拡大率が異なり部分ごとに時間がずれていて視点がずれていて
それらの部分を総合する作業を見る側に作業として委ねている
ここが不親切なところだし
しかしそのせいで大幅に表現の可能性が広がった

ということは見る側の「準備性」も問われることになる
その人それぞれに見えるものしか見えない

そのことは実はどんなに平明な分かりやすい画面でも同じであって
自分の見て感じていることと他人が見て感じていることとはずいぶん違うかもしれない
本当はここの部分に不安定な裂け目があるのだが
現実生活では不自由のない範囲で
だいたい同じ事を感じると仮定している

モネならば似たような感覚を共有できるのだろうが
ピカソだとそれぞれ違うということになりそうだ

そこの不親切さが厄介なところだ

たとえばみんなが気持ちが和やかになりそうな場面を見て
一人だけ怒り出したりするとして
その人が異常なのだろうか
解釈の可能性を拡張しているのだろうか

日本の短歌とか俳句は似たようなところがあって
読者の内面の状態を反映する

逆にゲームなどはどんな人でも楽しめるように下準備もいらない世界が構築されている

ピカソは任天堂のゲームよりは
短歌や俳句に近いと思う

ピカチューのゲームは点と点をくっきりつないでくれて何が面白いのかもくっきりと分からせてくれる
俳句はそんなわけには行かず、点と点をつなぐ作業は読者に託されたままである。