電波の競売

採録

7、電波の競売
 電波帯域を競売するべきだという考えは、世界中でますます広まりつつある。日本を含めてすべての国では、テレビ放送を送信するための電波帯域の利用権は、一握りのメディア企業にほとんど無償で与えられている。これを競売にかけることで大きな税収が得られるからである。
 現代社会では、電波の利用権が莫大な価値を持っていることは、誰の目にも明らかである。日本の放送業界の規模は年間4兆円程度だが、私が以下に簡単に推測するところでは、最低でもその半分の2兆円程度は、純粋に電波を利用できる権利がもつ価値なのである。
 テレビ番組の製作会社では、長時間労働、低賃金が蔓延している反面、テレビ会社の社員は必ず高給与が保障されているという現実がある。2007年5月14日付の経済誌『プレジデント』では、フジテレビの社員の生涯年収が6億円を超えて、産業界でも突出して高いことが報告されている。興味がある人は、ヤフーファイナンスにアクセスすれば、フジテレビの平均給与が1570万円であることが自分で確認できるだろう。
 通常の製造業では、社員の生涯収入は、自動車のトヨタから家電の松下まですべて2億円台である。つまりテレビ局の社員が二倍程度の収入を得るというのは、いかに突出したものなのである。同じように、広告会社の電通でも6億に近いということからも、電波利権が非常に巨大であることが理解できるだろう。
 これに対して、番組制作の現場に働く下請け会社の社員の給料は、テレビ会社の社員の3分の1以下だといわれている。これは、前述したプレジデントの記事にも、またNHK出身で放送業界に詳しい上武大学の池田信夫のブログにも記述がある。
 コンテンツを作る人びとは低賃金で、放送枠を切り売りしている人間が高賃金だというのは、コンテンツ産業振興などという建前からしても、いかにも本末が転倒している。おそらくは、製作現場では華やかな雰囲気などが低賃金を正当化しているのだろうが、テレビ局社員もまた華やかな雰囲気の頂点にあるはずである。とするなら、その高給にはどこにも正当化の理由が見当たらないのだ。
 なお、いうまでもないことかもしれないが、私は日本テレビなりフジテレビなりの報道などが、そもそも信用に値するものだとは思っていない。「あるある大事典」での事実の捏造問題などは氷山の一角に過ぎないことはいうまでもない。例えば、NHKの「ためしてガッテン」でさえも、科学的なレベルでは統計処理が全くなされておらず、内容を真剣に受け取るには、つくりが雑すぎるといわざるを得ない。
 また、民放のバラエティ番組は芸能人に興味がなければ面白くないだろうし、深夜番組にいたっては下劣だとしかいいようのない品性で作られているものも数多くある。私が自分自身の高校時代の世界観のままの共産主義的独裁者であったなら、即座に放送免許は取り上げるだろう。
 しかし、おそらく多くの人びとがそういった番組を望んでいるからこそ、そういった番組が存在するのだ。つまるところ、民放に品位を求めたりするよりも、むしろ電波を競売し、できるだけ有効に利用することのみを望むべきなのである。
 その結果が、下劣な番組ばかりであれば、それらを見なければすむことであり、それでもその番組は誰かから見たいと思っているからこそ存在するのだろう。過剰な道徳的パターナリズムはやめて、むしろ電波競売から税金を得て、他の税を安くすることを考えるべきだ。
 テレビにまつわる問題は、それ以外にも山積している。テレビ番組は著作権処理が複雑で、映画のような2次利用もほとんど進んでいない。もともとテレビ局のみが放送するという前提でも、排他的な電波の使用権に守られて、十分に経営が成り立ってきたからである。
 日本ではインターネット上のテレビである、GYAOがすでに1千万人を超える登録視聴者を獲得しているが、いまだに地上波ほどの人気のある番組はない。とはいえ、今後通信速度が上がるにつれて、テレビのような完全に相手の情報が得られない広告媒体は、長期的にはほとんどなくなっていくだろう。相手を限定しない広告はそもそも広告効果が弱く、経済的には価値が高くないからである。
 またアメリカではJOOST(ジュースト)という無料配信テレビが、スポーツから芸能まで既存の多くのチャンネルを抱えて、急速に人気を得ている。同じように、電子文書のデ・ファクト規格であるPDFをつくったアドベもまた、メディア・プレーヤーを開発して、配信者に自由なCMの入れ方を許すようなソフトを開発している。日本でもテレビというのは、インターネット上のコンテンツのことをさすようになる日は、案外に近いのかもしれない。
 こういった状態を受けてか、最近のNHKはしきりに震災の恐怖と防災活動の重要性を訴えかけている。公共放送の意義は視聴率競争のための娯楽番組よりも、そういった緊急放送にあるというほうが、人びとを説得しやすいからだろう。
 しかし、もし仮に緊急時の災害についての情報を公共放送が流すというのであれば、そのために必要なのは最低限のニュースチャンネルの枠のみである。当然にそれは、CNNなどのようなニュースのみの放送であり、大衆にとってはあまり面白いものとはならないだろう。
 残りはすべて競売を通じて、IP方式の通信に電波を割り当てるべきである。すでにクァルコムやインテルなどの大手の情報通信企業は、インターネットテレビを効率的に携帯電話に流す技術を開発しているのである。
 メディアフローとよばれるクァルコムの方式では、個別の番組を携帯電話に流すこともできるし、同時にスポーツ中継のようなリアルタイム性の強く要求される場合にも対応している。ただ既存のテレビ放送を流すだけの日本のワン・セグよりもはるかに多機能で、サービスの多様化を可能にする技術なのである。
 メディアフローは各国で独立した会社を作って、規格の普及に努めているが、本家のアメリカでは2007年から開始されている。すでにベライゾン・ワイヤレスやシンギュラー・ワイヤレスなどの会社を通じて、ペイ・テレビの形で1億2千万の顧客にリーチしているのだ。
 これに対して、日本のワン・セグは単なる質の悪い縮小版のテレビ放送にすぎない。確かにブラジルでも日本方式が採用され、またヨーロッパや韓国でも独自方式のテレビ送信を携帯電話向けに始めていて、将来性があるという人もいる。
 しかし私はこれに非常に懐疑的だ。これはつまり、放送免許がただで手に入ること前提にした
ビジネスモデルだからである。これまでのテレビと同じような単なる流しっぱなしの放送は、時間的な制約も受けるし、そもそも視聴者を完全には特定できないため、広告効率が悪いものだからである。
 アメリカのテレビ視聴のビジネスモデルでは、Tivoなどのようにハードディスクに番組をダウンロードしておいて、CMは視聴者にあわせてテーラーメード的に挿入している。そのほうがはるかに適切な広告が送れるからである。
 またヤフーでは、ホームページの閲覧履歴と年齢・性別、居住地、現在位置を考えて広告をしている。化粧品などの分野では、通常の広告の4倍以上の人びとがこうした相手を特定した広告をクリックして、さらに情報を得ようとするのである。現在のテレビ放送のような純然たる一方向の情報転送では、そういった情報を生かすことはできない。そのため、必然的に電波の利用価値が下がり、電波のオークションには勝てなくなり、既存のテレビは長期的には消滅するだろう。

デジタル・テレビをだれが見たいのか?
 私の感じるところで、テレビ放送業界が常軌を逸していると感じるのは、精細化したデジタル・ハイビジョン、あるいはもっと世界共通の言葉を使うなら、ハイ・デフィニション・テレビ(HDTV)についてである。日本では、2011年には、現在のアナログ放送が停波されて、全面的にデジタル放送に移行することになっている。
 私は、これに対してひじょうに懐疑的だ。NHKを筆頭にHDTVを宣伝するのは、映像に対して強い思い入れのある、企業や人びとである。HDTVの受信機材は全体として、より高額であり、芸術作品の放送にはたしかに向いているかもしれない。
 南極やヒマラヤなど、雄大な大自然の風景の移り変わりを克明に伝えるには、HDTVはすばらしいものである。またユネスコの世界遺産に代表されるような、人類の共通遺産とも言うべき建築物や自然もまた詳細で克明な描写が大きな価値を持つだろう。連綿と続けられてきた、王宮の建築や彫刻、絵画や音楽などの演奏についても同様である。
 しかし、これらはむしろマイナーなコンテンツだ。芸能人を集めて騒ぐだけのバラエティがゴールデンタイムを占める民放各局では、HDTVから得られるものなどほとんどない。総務省の役人が放送免許を人質にしているため、すべての民放局は従わざるを得ないのである。
 たしかにHDTV化の流れは世界的となってはいるようだが、むしろ考えてみると、小さくて荒い画像でもいいから、違ったものをたくさん放送したほうが、むしろ視聴者全体の満足は高いのではないだろうか。通産省、総務省の産業政策がなければ、むしろ現在のワン・セグのような、小さくて荒い画像が、多チャンネル化されて視聴者の携帯デバイス、あるいは小さなテレビに送られるということも十分にありえるだろう。
 この問題は、次の携帯と通信の融合の問題、そして、両方につかえる電波枠の競売以外には最適な解決の方法がない。一体だれが、どの程度1920x1080という高精細の画像が見たいのか。あるいは、320x240の画像サイズでの30チャンネルの放送のほうが、より強く望まれているのか。
 実際、多くの人は高精細画像など求めていない。高精細画像などよりも多くの人が望むのは、番組をいつでも見られるようにすることや、数多くのチャンネルがアクセスできることである。動画の場合は、静止画と違い、小さな解像度でも、視覚が画像の荒さを補って認知するために、それほど解像度は大きな訴求力を持たないことも多いのだ。
 どの程度の割合の放送コンテンツがHDで、反対にワン・セグで満足する人びとがどれだけいるのかを判断するのは、それをみる視聴者の支払い意欲と、見せる番組を作るコンテンツメーカーの製作コストからなる市場である。これまでのやり方のような、総務省の官僚や、NHKの放送技術研究所の技術者などが勝手に決めるべき問題ではない。

EUの電波競売
 イギリスでは2000年に、その他のヨーロッパ諸国でも2001年には、第三世代携帯電話の電波使用権が競売にかけられている。例えば、イギリスでは22億ポンド、約4兆円が対価として国庫に支払われているのである。
 人口や経済規模からすれば、日本の場合は10兆円にはなるだろう。これはしかし、第三世代という利用法に限ったものであり、年限もはっきりしないため、年間あたりにすれば、おそらく1兆円程度なのではないだろうか。とはいえ、日本の携帯電話事業の規模は全体で10兆円程度ある。その3割としても3兆円は電波の使用権の価値だろう。
 前述したテレビの電波利権が2兆円、携帯電波の利権が3兆円であれば、それらを競売すれば、少なくとも年間5兆円にはなる。
 かつて、2,5ギガヘルツ帯の電波を分配する際には、ソフトバンク、イーアクセスと並んで、IPモバイルが電波使用を許可された。ソフトバンクはその後、ボーダフォンを買収し、イーアクセスはサービスを開始している。それに比べて、IPモバイルのサービスは宙に浮いたままになっている。
 もともと、イーアクセスが投資総額として3600億円を捻出したのに対し、IPモバイルは53億円で事業を始めようとしたのだ。これにはやはり無理があったのではないだろうか。無理であったのか、それとも可能であったのかは、専門家でもなく、企業家でもない私には断言できないのは事実である。
 しかし、いったん事業をあきらめようとしたIPモバイルが、現在は森トラストからの金融支援を受けているということは、もともとの計画が難しいものであったことをうかがわせるに十分である。この場合、電波枠が競売にかけられていれば、IPモバイルのような口先だけの事情計画しかもたないような会社は入札しないはずなのだ。
 また、現在の日本ではテレビのUHFの放送帯域はガラガラであり、ほとんどまったく利用されていない。しかし、この帯域はそのまま携帯電話にも転用できるのである。総務省はテレビをデジタル化して、空いた地上波帯域の3分の1にもあたる、130メガヘルツ分を携帯電話にまわそうとしている。
 現在、新世代の高速通信であるWiMAXや次世代PHSなど多くの企画が存在している。どれがどういった場面で有効な技術なのかは、だれにもはっきりしない。こういった場合には、どの技術を持つ会社にどれだけの成功が見込まれるのか、電波をどれだけ有効に使うことができるのかは、競売によって企業に対してはっきりと自己申告的に公表させるほかはないのである。
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かし、当然にここでも、自己利益を図る官僚集団である総務省が、電波権益を手放すはずがない。新たな帯域の分配はまったく恣意的に、いくつかの携帯電話会社に無料でバラ撒かれることになるだろう。
 明らかにバカげているのは、総務省は電波の割り当てに際して、念仏のように「競争的な環境を整えるために」というお題目を唱え続けていることである。真の競争は、新興企業の自由な参入でしか起こりえません。つまり、役人が競争的な市場を作るために参入業者を恣意的に決めても、役人へのアピールとコネ作りのインセンティブを持つ企業が市場に残るだけで、いったん許可されてしまえば、競争などするインセンティブは制度の中には全くないのである。
 おそらく、現在のテレビ放送に比べて、より効率的な広告なり、通信料金なりの設定ができれば、日本の電波帯域の全価値が年間10兆円ほどにまで高まるのは間違いないことを考えると、これは大変に残念なことだ。
 これだけの財源があれば、現在おこなっている最低限度の生活扶助などは、他の税源なしでも十分に可能になる。電波が公共的なものなのは事実としてほとんど自明なことだ。その使用については、国家が私人にたいして特許として与える必要などまったくない。
 我われはこのあたりで「公共性」という概念について考え直して、テレビ局員やドコモの社員への優遇制度を改めるべきだろう。すでに1960年にロナルド・コースが発案しているように、社会的共有物である電波帯域を競売にかけるべきである。その資金は固定資産税そのものであり、弱者保護なりなんなりの目的に利用できるのだ。