人民を最も能率よく統治するのは
独裁であり
中国は今回独裁制の能率のよさを見せ付けた
経済成長を実現するにも
戦争をして勝つためにも
独裁がいいに決まっている
しかし独裁権力は人民を道具とみなし軽視したうえ搾取する傾向があるので
民主主義が望ましいとされるのは当然である
そこで理想的な形態は二つあり、
ひとつは独裁制のすばやさで民主制の市民の希望を実現する政治。
これはどう考えても理想的である。
もうひとつは、
人民を道具とみなし軽視したうえ搾取する傾向がある独裁権力であるにもかかわらず、
市民はそれが民主政治であり、機能不全であるのも民主主義であることのコストであって、
必要悪だと錯覚している政治。
権力側も市民の側もそれでいいのだから、落ち着くに決まっている。
しかし現実には、独裁権力は、しばしば市民の希望を読み間違える。
そして一方、市民は独裁制のずるさに気付いてしまう。
そこで考えられるのは、
教育的独裁である。
独裁的政治権力と、教育権力と、市民が、形式上三権分立したらどうだろう。
独裁者が思いっきり独裁をしても、市民はそれを市民の意思であり、
独裁権力は執行機関に過ぎないと思い込むように、
そして独裁者は市民の意思を第一に尊重しているのだと、
独裁権力と市民を教育する。
思いっきり間違った考えかもしれないが
孔子が教育者に過ぎないのに
支配者にも市民にも好かれるのはこのあたりの機能を果たしているからではないかと想像する。
独裁政治と民主政治が
良心のゆえに一致するのでもなく
偶然一致するのでもなく、
一致を錯覚すのでもなく、
独裁政治と民主政治は同一のものなのだと信じられるように教育してしまえば理想の政治は実現するのだ(内面的心理的事実としては)。
このような教育のプロセスがあれば、
独裁権力にとっても市民にとっても不満はない。
これが究極の統治技術ではないだろうか。
市民と教育と独裁が究極的に一致してしまう地点に至ること。それが統治技術である。孔子はえらい。
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しかしまた
せっかく独裁制を敷いているのに
サーカスみたいなことしかできないのは
情けないことでもある。
北朝鮮以上の内容はないことがばれたと思う。
そんなことのためなら
別に独裁なんかしなくてもいい。
貧富の格差が
一時的なもので
最終的には平等に裕福な時代が来るというのは
拳銃を突きつけられた状態以外では賛成できないだろう。
権力が市民を死刑にすることがいともたやすく行われるようでないと
独裁も難しいはず。