ユーザーの最終端に位置する人間となる楽しみ

人間は長い間、食糧を確保しまたそのあとでは生産してきた。
農業のあとには工業製品を生産したり、第三次産業でサービスを生産したりしてきた。
そして人間の生きる喜びは「生産」「創造」にあると言われ続け、
つい最近の「消費人間」の出現は、いいことなのか悪いことなのかと言った感じがつきまとっていた。

たとえば平安貴族は何かを生み出すことに真剣だったわけではなくて、
子孫を残すことと、一部の人たちは権力闘争を生活としたようだ。
人のために働くタイプの人たちではなかった。
労働といっても、官位を与えられて働いたのだが、
それを今風の考えで労働と言うべきか、分からない。

たとえば自動車という工業製品を例に取ると、
部品産業、タイヤ産業、道路産業、石油産業、コマーシャル産業、
などいろんな人たちが生産側に回っている。
生産物は人から人に手渡しされて、次第に最終産物となり、
それが消費者に手渡される。

生産構造を見ていくと、最終的に消費する人間、
エンド・ユーザーと言えばいいのか、そういう立場の人たちがいて、
それが平安時代の貴族であったり、
夏目漱石の時代の高等遊民であったり、
そんな感じだと思う。
だとすれば、現代では、生産物やサービスのエンドユーザーとなること、
とくに究極エンドユーザーとなること、が、楽しさの究極なのかと見も思う。
エンドユーザーと言うからには最後の使用者であり、その次の人に何かを手渡すことは予定していないのだ。

たとえば、芸術に接して解説文や感想文を書いて金をもらおうというのなら、
エンドユーザーではないわけだ。

生産物やサービスや文化を、湯水のようにただ消費して、
全く何も生み出さない。
そのような生き方が現在確かに存在して、
言葉の意味を広義に使うなら、ご隠居様というものだ。

発信さえしないという態度がじつに信じられないくらいすごいのだ。
文化に接すれば、それについて何か言ったり、自分でも作ってみたくなりそうだが、
そんなことは一切しない。
モネの睡蓮を見た後で、モネについては全く語らず、家族についての打ち明け話をしているご婦人。
他人の苦労に接しても、気にせず、湯水のように消費するだけなのである。

湯水のように消費すると言うが
わたしの場合は水はもちろん高いし、お湯だって今時は高くつくのだから、
湯水のように使うというわけにはいがず、
たとえもだんだん変更していかないといけないと思う。