新自由主義 世襲 

新自由主義を叫んでいた人々は
世襲議員だった。
おかしな話である。

まったく自由でない仕組みの中で
育成されてきた人間が、
自由競争を先導する。

現在のお金持ちや有力者にとっては、
新自由主義とはつまり、
現状の固定化である。

しかしながら、新自由主義の行き先には、
国際大資本の世界支配がある。
日本のお金持ちは、多分、負け組になる。

先のことを考えているのは米国のお金持ちで、
ここしばらくのことを考えているのが日本の政治家だろう。

その自由主義であるが、
競争は自由にすればいいとはいうものの、
そもそもの出発点で差がついているのだ。
出発点を平等にすることは考えないのだろうか。

昔は、
結果の平等と
機会の平等を
対比させていたものだ。

結果の平等に重きを置けば福祉国家観になる。
機会の平等に重きを置けば、自由主義国家観になる。

機会の平等を言うからには、
出発点の平等を保証しなければならないはずだ。

しかし
出発点の不平等がどこにでもある。

政治家で言えば、親の選挙地盤と金と人脈を受け継ぐ世襲議員は、
若くして議員に当選できる。
当選を重ねて、地位を築く。

世襲でなければ、若い時期の当選は望めない。
従って、権力への接近も遅れる。

あるいは、組織の代表として議員になっても、
数年で取り替えられるだけだ。

11月29日付の朝日新聞の記事よれば、
世襲若手議員は、当選は出来るが中身はない。
中身を注入しているのは、昔は官僚だったが、
近年では外資系金融機関であるという。

あるいは医者の世界でも、
お金持ちの子供でなければ、
医者になれない状況はやはりある。

学力はある程度、親の経済力に関係する。
また、入学に際して、また、その後の学費について、
親の経済力が必要である。

スタートはまったく不平等である。

そんな中で、競争しろと言うのだから、
おかしな話である。

そして、先日演じられた、総理大臣の辞任劇である。
不平等なスタートから始まった競争によって選抜された人間が、
どのような内実を伴うものであったか、
理解できる。

本質的に要求されていたものは、健康だけであった。

そこに、
この国の競争と自由の内容が、見えているのだと思う。

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知性のある成熟した人間ならば、
自分でなくてもいいことをやらされている現状に不満を持ち、
自己実現を目指すものだと、
心理学は教えている。