政府による収奪と分配

ひきつづきフリードマン的発想。

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自分の価値を社会に押し付けるために、誰か他人のポケットからお金を取り出そうなどとゆめゆめ思うことなかれというのが健全な道徳ではないか。

イチローや松井秀喜の年収は、たしかに普通の生涯収入を10倍規模で上回っている。けれども、だからといって彼らからその努力、あるいは才能の対価としての収入を強制的に奪って、私に分配しろというのは、あらゆる意味で倫理的ではない。

政府による所得の再配分とは、大人がみんなで寄り集まって「議会」をつくり、多数決をとり、強制的に誰かが持っているものを暴力を使ってとりあげるということなのだ。これは道徳的に考えてみれば、到底フェアな行為とはいえない。

人がものを所有している場合、そこには本人の才能や努力などの理由がある。もって生まれた美貌や天才的な技芸の能力によるかもしれない。あるいは純粋に努力や根性としか呼びようがないような克己精神による修練、訓練のおかげかもしれない。あるいは彼らの親がその身を削って獲得したものを与えてくれたかもしれない。安易に人の持ち物を取り上げる前に、そもそもそのような行為が正当化されるべきであるのかを疑うことが必要。

実際、内閣府がおこなった「国民生活選好度調査」によれば、日本でも約7割の人たちが、「個人の選択や努力の違いによる所得の格差などは当然である」と答えている。また朝日新聞社が2005年から2006年にかけておこなった世論調査でも、「競争は活力を高める」、「挽回できない社会ではない」と考える人は6割にものぼっている。

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やりたいことがあったら、自分のお金でやればいい。税金として強制収奪してやるべきではない。