宗教心

次々にいろんなことが起こるねえ

そうなんだ
いろいろと起こる

そのときに
そのたびに気持ちがぺしゃんこになってる人もいる
支えがないんだ

私が思うに
キリスト教抜きの
西洋式教育を受けているものだから
困ったときの心の支えがないんだと思う

カトリック系とかの学校で
心にしみこむような宗教教育があるかといえば
そうでもない
死んだおじいちゃんは天国に行くのだと信じられないでは
宗教観念の中核の欠損である

またたとえば
人が死んだ時の悲しみの手順とか
お祈りの仕方とかを知らないままの人が多いのだと思う

死んだ人を見たことがないんだもの
仕方がない

仏教や神道で悲しみの手順が合理的かといえば
そうでもなくてとてもとても納得の行かないものなのだけれど
何もないよりは
おじいちゃんが死んだときにおばあちゃんはこうしていたなというのは
手がかりにはなると思う

もっと濃厚に創価学会とか天理教とか真如苑、霊友会、立正佼成会、阿含宗、仏所護念会、
高野山真言宗、信貴山真言宗、曹洞宗永平寺、禅宗で建長寺、円覚寺は臨済宗、
浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、などなど数えるとたくさんあるので驚くが、
とにかく、そういった濃厚な手続きと人のつながりのある組織であっても、
悲しみそのものを救いきれてはいないのだと思う。

近くのお寺でも、浅草寺、芝の増上寺、泉岳寺、高野山東京別院などもある。
大晦日以外に行く人がいるんだろうとかということになる。
増上寺はなんとなくいいけれどね。

*****
何の話だったかといえば、
そんなわけで、いったん気持ちがぺしゃんこになると
支えるものがない

そんなとき人は極端な反応を示してしまう
誰も止められない
止めたいけれど逆恨みされるから
知らんふりで通している

その気持ちも都合も分からないではないけれど
そのようにして不幸のそこに沈んだままで
みんな表面的な御挨拶をするだけで、
陰ではもうあの人には関わりあいたくないなどと言いあっているのだ

このあたりが本質的な宗教心の欠如だと思う

今私は無関心で通すこともできるし
正しい言葉をいうこともできるし
その場しのぎの言葉をかけることもできる
その場合に神様に思われている人ならどうするだろうかという問題だ

精神科医に任せておけばいいという答えはどんなものだろう?

*****
さんざん回り道をしてやっと
靖国の参拝である
8月15日の政治家の参拝は毎年問題になる
年毎に見ていくと確実に復活の方向

しかし遺族関係は年老いてだんだん勢力を落としているはずと思うので
そのあたりが不思議だ
軍人恩給もだんだん細るのではないかと思うのだが
どうなのだろう

昔、田舎の人は、
軍人恩給と転作奨励金で何とかつなぎ
そのうち道路計画が出来て土地が値上がりして
市街地調整区域から市街化地域に変わり
高く売れて……という物語が反復されていたらしい。
田舎はしばらくの間、福祉国家だったのだ。