ネット社会 情報ハイウェイの過酷な選別 その後の母性的空間

ネット社会では情報の拡散が早い
拡散の過程でゆがめられることも多くあるとはいうものの、
元の情報にたどり着くことも可能であり、
結局、情報は多くの人に共有されることになる。
情報ハイウェイである。

自己愛を支えるのは自分が特別な人間であるという信念であるが、
その根拠となるものをネットの中から拾うことができる。
将棋の実力を測定することができる。
受験勉強の仕方を読み取ることができるし、その結果としての自分の評価を読み取ることができる。

ネット時代以前には、受験勉強の情報というものも、地域差があった。
たとえば仙台ならば東北大学への入学についてはノウハウの蓄積がある。
東京なら東大だし、徳島ならば京都大学となる。
何を勉強してどの程度理解していれば合格可能なのかということを
すばやく理解することも大切な知能である。
知的操作能力とは別にそのような適応力も受験勉強の大切な要素である。

ネット時代になって、基本的に与えられる情報は均一化したと言っていいのではないか。
昔ほどの地域間格差はないように思う。

ここからが問題なのだが、
知能があれば、自分の知能がどの程度であるのかの判定は出来るのである。
いかに自己愛的とはいえ、
自分がどこまでの才能があるのか、学問で、音楽で、将棋で、スポーツで、
才能があればあるだけ、超えられない限界もみえてしまうだろう。

したがって、現代の若者は、早期に一列縦隊に並ばせられて、
前から100人、合格、といったように区切られてゆく。
過酷な選別である。

その現実を突きつけられるのは比較的早いし、すっきりしている。
その事を受け入れられないならば現実をゆがめて解釈しているということであって、
精神機能としては精神病レベルということになる。
神経症レベルである限りは、現実把握には歪みがない。
現実を受け入れるところまでは受け入れる。
しかしそのことでの痛みをいつまでも忘れられない。
痛みを耐えるために引きこもる。

柔軟な変身が出来ない。
敗北をつき付けられて、認めるところまではすばやいが、
その後に、引きこもってしまう。

引きこもった先には、
まるで母子癒着の延長のようなネット世界が横たわっているのである。
厳しい客観的判定を拒み、
それぞれが美しい花なのだなどと言って
自己研鑽の努力なくそのままで認められたいという傲慢な欲望を
100%受け入れている空間がネット社会である。

あなたはそのままでいいのよという
母親的とも
あいだみつお的とも言える
メッセージに身を浸しているうちに、
浦島太郎は竜宮城から出られなくなる。

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以上のように、
ネット社会は、
引きこもりまでのプロセスを変えたし、
引きこもってから後の精神状況を変えた。