The only path to tomorrow

The only path to tomorrow

Readers Digestに1944年に発表されたアインランドのエッセイ

人類そして、文明に対する最大の脅威は、全体主義哲学の広がりである。
全体主義哲学の発展を最も助ける行為は、その支持者の献身によるものではなく全体主義の敵がなんであるかを混同することにある。

全体主義と戦うためには、我々は敵を理解しなければならない。
全体主義は、集産主義である。
集産主義は、グループに対する個人の服従を意味する
そのグループとは、民族、階級、国家を問わない。
集産主義は、人間がいわゆる「公益」のために集団行動と集団的思考に鎖でつながれなければならないと考える。

歴史を通して、圧制者は「公益」を代表すると主張することなく決して権力を得ることはなかった。
ナポレオンは、フランスの「公益に奉仕した」。
ヒトラーは、ドイツの「公益に奉仕している」。

自分の行動に、利己的な動機があるとは、考えようとしないのには恐怖感があり、その感覚は利他主義者が明白な意図をもって引き起こしているものである。利他主義者は、公益によって自分達を正当化する。
圧制者は、武器のみによっては、その権力を長く維持することは出来なかった。
人間は、主に精神的な武器によって隷属させられてきたのである。
そして、このうち最大のものは、個人を超越する国の主権が公益を構成するとする集産主義的な教義である。

もし人間が神聖な信仰として、人間には不可譲の権利があり、その権利はいかなる理由があろうとも、また、いかなる者からも奪われることはないという信念を持っていれば、独裁者が現れることはない。
それが、どんな人間によっても、悪人によっても、いわゆる後援者によっても奪われないという確信があれば。

これは集産主義に対する個人主義の基本的信条である。
個人主義では、人間とは、お互いを平等に対処する社会の中で彼自身の幸せを追求する不可譲の権利をもつ独立した実体であると考える。

アメリカのシステムは、個人主義に基づいている。
もし個人主義が生き残るべきものであるならば、我々は個人主義の原則を理解しなければならないし、また我々が向き合うあらゆる問題において、いかなる公共の問題に対しても、その基準となるものとして考えなければならない。
我々には、ポジティブな信条、はっきりした一貫した信念がなければならない。

個々人の権利の廃止が公益に資するという考えを、完全に邪悪な考えとして拒絶しなければならない。
社会全体の幸福が、社会全体の苦しみや、自己犠牲から生まれることはありえない。
唯一の幸福な社会とは、幸福な個人たちからなる社会の一つである。
人は、腐った木からなる健康的な森を持つことはできない。
社会の力は、個人に備わる基本的また奪うことのできない権利によって、常に制限されなければならない。
自由の権利とは、個人の行動への権利、個人の選択への権利、個人の主体性そして、個人の財産に対する人間の権利を意味する。
私有財産に対する権利なしでは、独立した行動は可能でない。

幸福を追求する権利とは、人が自分のために生きるという権利を意味する。
自分自身のプライベートな個人的な幸福を選択し、その達成に向けて働くということだ。

各々の個人は、唯一人のこの選択をして、また最終的に判断する者である。
人間の幸せは、他の個人によっても、自分以外の団体によっても規定されることはありえない。
これらの権利は、全ての人間に備わる無条件かつ一身上の、私的にして個人的な所有物であり、ただこの世に生まれたという事実のみにより、他のいかなる認可も必要とせずに、人間に与えられるものだ。

そして、このような考えこそが我々の国の創設者の概念だったのだ。建国の父達は個人の権利を、あらゆる集団的要求よりも上位のものとして位置づけた。
社会には、人間関係におけるお互いの交わりの交通巡査のような役割があるだけである。

歴史の始まりから、2種類の人間が敵対者として向かい合ってきた。まったく正反対のタイプの人間がいた。それはActiveな人間と、Passiveな人間だ。

Active Manは、製作者、クリエーター、創設者、個人主義者である。
彼に基本的に必要となるものは、考え、働くための独立性である。

彼は、人間に対する支配力を必要ともしなければ、求めもしない。また、彼をどんな形であろうと強制の下で働かせることはできない。
あらゆる種類のよい仕事は、レンガを積むことから、シンフォニーを書くことにいたるまで、Active Manによってなされる。
人間の能力の程度は異なる。しかし、基本的原則は同じである。人間の独立と主体性の程度が、人間としての彼の価値、労働者としての才能を決定する。

Passive Manは社会のあらゆる階層の中におり、大邸宅の中でも、またスラム街でも見つかる。そして、彼を特徴付けるものは、彼が独立を恐れることである。
彼は、他人に大事にされることを期待する寄生体であり、人に従い、服従し、管理されるよう指示命令が自分に下されることを願う。
彼は集産主義を歓迎する。なぜなら集産主義は、彼が自分で考え、自分の主体性でもって行動するあらゆる機会をなくしてくれるからである。

社会がPassive Manの必要に基いて作られるとき、それはActiveManを破壊する。
しかし、ActiveManが破壊されてしまえば、PassiveManはもはや誰にも面倒を見てもらうことができない。
そして社会がActive Manの必要に基づいて作られるとき、彼はPassiveManを、彼の力で導くことができ、また彼が立ち上がることで、passiveManとさらに社会全体を立ち上がらせることができるのだ。

これは、つねに人間の進歩のパターンであった。
一部の人道主義者は、役立たずや、Passive Manに対する哀れみから、集産主義体制を要求する。
彼らのために、Active Manを抑制したいと思う。
しかし、Active Manは、人に抑圧されるともはや機能できない。
そして、一旦彼が滅ぼされれば、Passive Manの破滅が必然的にあとに続く。
哀れみが人道主義者の第一要件であるとするなら、その哀れみの名において、PassiveManを助けるためにも、Active Manが自由にし活躍できるようにしておかなければならない。

長い目で見ればPassiveManを助けるには他のいかなる方法もない。
人類の歴史は、Active ManとPassiveManの争いの歴史である。つまり、個人と集団との争いである。

最も幸せな人間と最も高い生活水準を作り出した国、そして、最も大きな文化的な前進があった国は、政府の集団的権力が制限された所であ
ったし、個人に独立した行動の自由を与えられたところであった。

例を挙げよう。
ローマの勃興は、当時の集産主義的な野蛮性に対して、市民の権利に基づく法律概念があったことによる。

イングランドの勃興においては、集産主義的な、全体主義スペインに対し、マグナ・カルタに基づく行政制度を持っていた。

歴史上、比類のないほどの合衆国の勃興は、その憲法により、集団に対してではなく、市民の一人一人に対して与えられた、個人の自由と独立性によるものである。

人が、文明の勃興と没落の原因をまだじっくり考えてる間に、歴史のあらゆるページでは、進歩には一つの源泉しかないことを我々に叫んでいたのだ。

それは、独立した人間による、独立した行動だと。

集産主義は、古代の野蛮性の原則である。
野蛮人の存在の全ては、種族のリーダーによって支配される。
そして文明とは、人間を人間から自由にするプロセスなのだ。

我々は、現在一つの選択に直面している。
前進するのか、後退するかの選択に。

集産主義は、「明日の新秩序」でない。
それは、「昨日のまさに暗黒の秩序」だ。
しかし、「明日の新秩序」は、存在するのだ。
それは、個人的人間(Individual Man)のものである。
彼こそが、人間性(Humanity)が今までに認めてきた、明日の唯一の創造者なのだ。