大回顧展モネ 国立新美術館開館記念

国立新美術館開館記念
大回顧展モネ 印象派の巨匠、その遺産

混雑しているだろうなと思いつつ、
土日よりは金曜がいいだろうと思い、
仕事帰りに立ち寄ってみた。

6時頃は意外と空いていた。
7時くらいになって次第に混雑してきた。
仕事帰りのOLさんらしき人たちが多い。

やや年配の人もいて、
会社でいえば部長さんのような感じ。
若々しさがあって、あんな感じの人は大学教員に多いなと思ったりして眺めていた。

私が美術館で見るものは、
半分は絵で、半分は人間だ。

だって、絵の前で人間は意外とプライベートな姿をさらしているから。
洋服を着てバッグを持って美術館にいるのだから、
意識のモードとしてはパブリックに決まっているのだけれど、
絵の前で何かを感じるとなればそれはプライベートなことにならざるを得ない。
そこで人はパブリックでかつプライベートということになる。
ここがおもしろくて、見るともなく見て、聞くともなく聞いている。

美術館に来る人は、美男美女は少ないものだ。
美男美女には美は間に合っているらしい。
むしろ、もって生まれた美を活用するのに忙しいのだろう。
その人たちは鑑賞させる側なのだ。
美術館に来る人たちはおおむね、鑑賞する側の人たちである。

美術館から出て、六本木の町をすこし歩くと、
絵なんかよりも綺麗なものが町にはあふれていることに気がつく。

綺麗という言葉、今日も美術館にあふれていた。
美が溢れていたというより、綺麗という言葉が溢れていた。

今日は音声ガイドは小泉今日子だという。500円。
特に上手ではなかったけれど。
朗読で上手だったのは、徒然草、安良岡康作解説、NHKラジオ、のときの
朗読者だった。
たぶん白坂道子とか。

小泉今日子は長澤まさみとよく似ていて、
典型的な日本のおばさん顔だ。
骨格が同じ感じがする。

音声ガイドを聞いていて、
変な使い方を考えた。
でたらめな絵ででたらめな解説を聞くのである。
もちろんそぐわない点もあるのだけれど、
そこを想像力的に補う。
そのような脱構築的な聞き方をして考えながら絵を見ていたら、
そばを歩いている女性たちの服装がどれもシュールで、
2007年的現実は私を追い越していた。
そのちぐはぐな感じときたら、でたらめ解説以上だったのだ。
でたらめな解説にしても、モネについての話にはちがいないわけだから。

絵は本当によいものだ。
特にモネはいい。
日本人好みなのだろうが、私の好みだ。
パリに行ったときも、オランジェリーが楽しいわけだし、
オルセーでもどこでも、モネがあるととても落ち着いた気分になれる。
特に睡蓮はみんなが好きで私も好きだ。
今回集められた睡蓮は、描いた時期もいろいろあるらしく、
デッサンも色合いも様々だった。
このような試みの中で、
たとえばブリジストン美術館にある一枚とか、
オランジェリーにある連作とかになったわけだ。

あわせて展示されていた現代美術もそれぞれおもしろい。
たとえば松本陽子「光は荒野の中に輝いている」はアクリル絵の具を使っていると解説があったが、
とても好きだ。

「光は闇の中に輝いている」(ヨハネ1:5)。光が輝くのは闇の中でなのだ。光の中ではもはや光は必要ない。光を必要としているのはむしろ闇の方なのだ。この世界が闇の力に覆われているからこそ、そこに光が必要なのだ。主の栄光が現れるのは、実はこの闇の中でなのだ。そこに最後の希望がある。

場所の影響も大きいような気がする。
新装開店の大美術館、場所はミッドタウンとヒルズの近く。
本当は大美術館の近くに芸術家が住めたらいいのだろう。

でも、最近は、芸術家以上に、観客が、芸術している。