なすべきことに如何にして行き着くか

結局、私はいまの人生に満足していない。
この身の回りの状況を満喫しているわけでもない。

やりたいことはほどほどにあり、
気晴らしも適当な程度にはあるけれど、
なすべきことに行き着いていないのだ。

使命の感覚と言ってもいい。

したいことをするのではなく、
私は自分としてなすべきと思ったことを納得して行いたい。

この感覚はなんだろう。
「なすべきこと」が世の中にはあるという感覚。
これは小さな頃から繰り返し刷り込まれたものだ。
あるべき人生があり、あるべき世の中がある。
現在ではそのような「範型」はあるはずもないだろうと考える。
子どもの頃の夢からまだ目覚めていないのかと、
自身を笑う。

二言目には人類のためとか、大げさな言葉が口をついている。
これも、子どもの頃からのすり込みである。

ただ自分のために生きる、
そのような態度には私は満足ではないのだ。
なぜなのだろう。
体質と言うべきか。

カトリック教会にでも行って、
原理主義的に考える、考えの足りない人や、
死の恐怖を克服できず錯乱している人とともに、
祈り、
世の中に明確に正しいことがあり、なすべきことがある
という雰囲気の中で時間を過ごしたいものだとも思うのだ。
しかし私としては、どうしたことか、
そのような場所に行くととても居心地が悪い。
場違いである。
やはり間違っている。この人たちとは同じではない。
そう感じてしまう。

それでも、カトリック教会は私にとってベターな選択なのだ。

そうだね、こうして書いてみるとベターでもないね。

倫理の基礎理論が欲しいと思い続けてきた。
しかしないことが分かった。
それだけの人生だった。