倒産寸前、負債を抱えた会社の再建を請け負う弁護士。
弁護士が見捨てれば、会社が消えるだけではなく、
命まで消える可能性がある、だから、見捨てることはできないのだと語る。
社会の中で、そのような役割を果たす人間が必要なのだと語る。
尊いことだ。
誰にでもできることではない。
何が彼を支えているのだろう。
例えば、借金を棒引きにしてくれと頼むのだから、
債権を持っている立場にしてみれば、
怒りもあるだろう。
潰してしまわない方がいいですよと説得するのだが、
多分、その過程では、さんざんな言葉も浴びるのだろう。
そして、もうこんなさんざんな仕事はこりごりだ、
もう世の中のためにずいぶん働いたではないか、
少し休ませてくれ、と思うはずだ。
極端に言えば、他人のことなのだ。
弁護士にしても、自分の知らないところでいろいろな人が死んでいる。
自分の受任した範囲で最大限頑張っているとしても、
それが何ほどの意味があるだろう。
焼け石に水ではないか。
しかしそうではない。
いま、目の前にある、困難を、
抱えながら共に歩いてゆくことはできるのだ。
その志のありがたいことは限りない。
その志に救われた人たちにしてみれば、
この世界を支えている愛を実感したはずである。
人間はこのように生きることもできるのだ。
周囲の人よ、どうかこの人を、挫けさせないで欲しい。
心理的にも体力的にも多分ぎりぎりだ。
ありがたいことだ。
ほとんど宗教的な境地である。
そうでなければ、現実の「混濁」に立ち向かうことは難しいと思う。
あるいは、たとえば辻邦生が文学をよりどころとして、
時間の風化作用に抗したように。
これを宗教とは言わないが、本質的には宗教的な感覚だろうと思う。