N響定期公演

NHKホールにて定期公演、
モーツァルト交響曲第25番とマーラー交響曲第4番。
アシュケナージの指揮を間近で見るのははじめてだった。
太ったなあ。
アシュケナージのショパンなどは大好きだけれど、
指揮はどうなんだろう。

会場は、まじめそうな人が多い。
原宿駅から代々木公園などを通ったせいか、
これが同じ日本人かという感じ。
世代でいえばやはり上の方。
ご夫婦で来ている人は、とぼとぼ歩いていたので気がつくと、
奥さんはパーキンソン歩行で、しかもおむつをあてていることが分かる。
年をとるとたいへんなんだな。

モーツァルト交響曲第25番。
これは映画アマデウスでも使われた印象的なメロディ。
それがかなり何度も反復される。
N響の弦はやはりなかなかきれいだと思う。
でも、艶が足りないと思う。
と思っているうちに、音楽は遠のき、
自分の心の中の想念だけが踊っている。
気にかかることがある時には音楽も気晴らしにならないな。
なんだか遠くで鳴っている感じ。
弦の弱音部分はきれいだった。

聞いているうちに、自分の人生がサッカーボールのように思えた。
あっちに蹴られ、こっちに蹴られ、あてどもなく回転している。
しょうもない人生だ。いつの間にこんなになってしまったのだろう。

休憩をはさんで、マーラー交響曲第4番。
子供の不思議な角笛というやつですね。
ソリストはソプラノ、クララ・エク。
今日の席は一階の左、前から二番目。
まるで第一バイオリンの背中みたいな位置である。
アシュケナージの指揮中の表情もよく見える。
疲れていたみたい。
切れ切れにきれいな音が聞こえてくる。
でも全体としてのまとまりがつかめない。
私に集中力がないからだろう。
やはり途中から自分の想念の中に沈んでゆく。
考え続けたって解決はしない問題なのだ。
分かっている。
やはり、背景をなす弦は美しい。特に弱音になった時、印象的だった。
それに対して、管楽器がよくないと思った。
コントロール不充分という感じがした。
ごめんなさい、素人が。
音が重なると、濁るような印象だ。
聞き取りの問題なのだろう。

ステージを見ていると、トライアングルがよく見えた。
ちょろいのかなあと思って注目していたら、
なかなかたいへんだ。
タイミングもそうだけれど、叩く場所と往復の仕方など、並大抵ではなさそう。
三角の右下の角を一つ使い、だんだん小さく速く叩く。
今日のトライアングルさんはビジュアルも素敵で、
個人的にはとても楽しめた。

後半、ソプラノが歌う頃は、もう自分の想念におおわれていたのでよく分からなかったけれど、
演奏後、団員がみんなソプラノに拍手していた。
多分、熱演だったのだろう。

そして終わった。
公園を抜けて、明治神宮に向けて歩いた。
5時くらいで、ちょうど夕焼けの時間だった。
葉が落ち尽くした枯れ木がくっきりと空に照り映えている。
肺動脈に薬剤を加圧注入した像のように見える。
自然界に遍在する反復のパターン。
DNAの仕組みの中に、この反復を制御する部分があるはずだ。
似すぎている。

くっきり晴れた空に葉のない枝。
私の人生の中では狭山丘陵を思い出す。
狭山茶の産地のあたりだ。
夕焼けの時間、それはくっきりと美しい夕暮れだった。
まだ若く、恋愛の感情もあった。
まだ、未来を信じてもいた。

明治神宮ではすばらしい大木。
本郷の大学の中にも大木はあるが、ここまで大きくはない。
常緑樹はありがたいものだ。
二月のこの時期にも緑は茂り風に音を立てている。
明治という時代を思い、漱石と鴎外と、など思い浮かべる。
そうしている間に自分の抱えている問題が
少し遠のいてゆく。

帰り着いて、この文章を書いている。
人生の一時期、出口の見えない時期もあるものだ、
そう結論した。