家の片付けをしていて、
古いカセットテープを処分する必要に迫られている。
必要なものはハードディスクに録音してあるので、
とりあえずは、田舎の物置に収納しても問題はない。
しかし先日少しだけ荷物をいじってそのままとなり、
なんとなくセットして聞いてみた。
流れてきたのはNHKのクラシック番組で、
少しくだけた感じだ。
威勢のいい「アマポーラ」がバリトンで流れたり、
ギターの音色が流れたりする。
本を読みながら流していたのだが、
これこそは何となく「死」というものの感触ではないかと思ったりする。
思いがけなく聞いたカセットテープであるが、
それは私が録音したものである。
かなり昔のこと、本当に私が、機械にセットして、ボタンを押したはずだ。
その一回限りの事実が、ここで証明されている。
わたしの人生はこんなものであった。
たあいもないものだ。
まだ若い私が、機械の、「REC」ボタンを押している。
後年になって、暗い気持ちで、
「死」の感覚を先取りさえしながら、
聞くことになろうなどとは、夢にも思わず、
「REC」ボタンを押している。
そこで思うのだが、
少しではあるが私の人生にもまだ続きがありそうだ。
いまこうして暗鬱に思いをいたしているこの時間を、
今後何かの機会に蘇生して体験することがあるとすれば、
ますますやりきれない思いだ。
あの世に行ったとして、気の抜けた思いで、
この世のことを回想するのだろう。
わたしは充分に生きたとは言えない。
こんなのが私の人生であっていいはずがない。
そんなことさえいま未来を先取りして思うのだ。
思いがけず古い写真を手にしたり、
偶然に古い知り合いに会って昔を、強制的に、追想させられたり、
ふと古い古いカセットテープを聴いて、蘇る昔に驚愕したり、
そんなことも、心にひとしおつらい、この冬である。
戦争で市街地が焼かれて、その中に立ちつくす、
そんな敗残の感覚である。
あの頃の時間はいったい何だったのだろうと、
めまいの中で思う。
はじめから、どうせ虚無だと思い定めて、
ニヒリズムを生きる頼りとして人生を送ってきたのならば、
少しは違っただろうか?
私は違ったと思う。
当時は未来を信じていたのだろう。
だから最近しみじみとやるせないのだろう。
というわけで、古いカセットテープなんか、
聞くもんじゃない。