京都の景色、日本の風光が美しい。
こんなにも「美しい国」に住んでいたのか。
目の不自由な女性という設定で、
聴覚や触覚、さらには言葉の表現まで、
あれこれと考えさせられる。
雨が葉に当たる情景。
これを目で見ないでどう感覚しているのか。
さらに男性はスイス人であるから、
なおさら日本語表現について考えさせられる。
画面に映っていること、人物が体験していることを、
日本語でどう表現したらよいのか、
スイス人男性の気分で考えさせられる。
面白かった。
雨の描写がすばらしい。
考えてみれば、雨は、あたり一帯をぬらしてしまうのだ。
表面という表面を洗い流してしまうのだ。
また、雨が降る一瞬手前の、水分で飽和した空気も好きだ。
映画の中の場面を、
原作の文章ではどんなふうな言葉で語っているのだろうと、
興味がわく。
そうしてみれば、映画の情報量は大きい。
しかし一面でもどかしい。
この輝く一瞬を、言葉で「仕留めたい」と思う。
雪の降る夜、銭湯に行くのは、いま考えると少し億劫だが、
当時は億劫とも考えなかった。若かったんだな。
そして雪の中を銭湯から帰る。
帰ったんだ。
中田喜子さんはカザルスホールで見かけたことがある。小柄な人だ。きれいだった。
外国人が疎外を感じる様子がよく描かれていると思う。
安部公房「砂の女」を朗読していた。
再読してみようと思った。何年ぶりになるだろうか。