ブリジストン美術館にて「じっと見る 印象派から現代まで」を見る。
・ピカソ
1913年ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙
1923年腕を組んですわるサルタンバンク
この両者を比較する。
1913年の作は、後期キュビスムにあたる、総合的キュビスムの成果である。
前期キュビスムは分析的キュビスムといわれる。「MARC」とラベルしてある瓶がキュビスム風に分解されて中央に提示されている。画面上にワインの瓶の注ぎ口とまるい肩が見えている。グラスは両側にある。新聞紙は新聞自体を貼り付けるコラージュ技法を応用している。「JOURNAL」の切れ端が見えている。
瓶の後側に新聞、瓶の両側にグラス、それらが、テーブルの上に乗っている。
絵の具が盛り上がっているのは砂を混ぜて書いているからである。
音楽でいえばジャズが似合う。
第一次世界大戦が終わり、ピカソの愛する女も替わる。戦争で疲弊して、時代は大戦前を懐かしむ雰囲気に溢れる。ユトリロなどがもてはやされる。
1923年にピカソはサルタンバンクを描く。サーカスの呼び込みとしてアクロバットを演ずるような人たちのことで、下層階級の出身に違いないが、絵の中では泰然と腕と足を組んでいる。キュビスムは捨てられている。画風をこのように大胆に転換できるのは、ピカソの天才の証である。
画面左上部分に空白があり、うっすらと人の影が見える。完全に消してしまわない、ピカソの創作上の作為が見える。人の影を探ると、左手をサルタンバンクの右肩に置いているように見える。
ブリジストン美術館で昔エックス線画像を撮影したことがあり、その結果では、サルタンバンクの右肩部分に顔をもたせかけている女性像が描かれていた。ピカソはそれを全部完全に消して、壁を描き、その上に思わせぶりに人の輪郭線を残したものである。
同じ人物で描いた絵がニューヨーク・メトロポリタン美術館にあり、その絵では、エックス線で浮かび上がった女性が描かれている。
というような次第で、ピカソは戦争にはさまれた一時期をパリで過ごしていた。
・マティス
ピカソと並ぶ巨人、マティスも1920年代は、フォーヴィスムというよりは、古典的な静謐に近づく。
マティスの娘を描いた1914年の作品では、輪郭に色つきの線を使用したりしていたものが、1921年両腕をあげたオダリスクでは色彩も形態も懐かしいものに回帰している。時代の刻印と言えるだろう。
ブリジストン美術館ではマティスを沢山所蔵している。
・エコール・ド・パリの人々
エコール・ド・パリを厳密に言えば、外国人で、1920年代にパリで活動した画家ということになるらしい。ユトリロやローランサンは当てはまらないことになるが、広義のエコール・ド・パリとして扱っているようだ。
・ユトリロ
10代ですでにアルコール症という、特異な人生である。
いま、どれかの絵に飛び込んでしばらく居てもいいというなら、
ユトリロの絵の中に入っていきたいような気がする。
・カイム・スーティン
1924年の絵。さして感銘も受けないが、まあ、こんな絵を描く人もいるだろうなという程度。現代の我々は圧倒的に多くのイメージに接しているので、ある種の感覚麻痺に陥っているのだろうと思う。
・シャガール
この人もエコール・ド・パリを彩る一人とされるらしい。
・藤田嗣治
1913年にパリに行って、いきなりピカソを訪ね、衝撃を受ける。
当時パリで流行していた絵の、逆を描いて、個性を出そうとしたとか。例えば、キュビスムに反して、どちらかといえば、古典的な視点を保ち、色も穏やかに。独特の乳白色を使い、日本の毛筆と墨を使い味わいを深くするなど工夫。パリの展覧会で数多く入選し、若くして審査員として迎えられ、後にはレジョン・ドヌール勲章までもらう。
従って、後進の日本人画家の指導的立場につく。藤田の名声もあり、円・フランのレートが当時として4倍程度に跳ね上がったこともあり、パリでの日本人は急増した。
・小出楢重
パリ留学組。しかし馴染めなかったようで、帰国してから悔やむ。自分を西洋人のようにしたいと生活を洋風にした。1924年の絵はそんな様子がよくでている。
この人は裸体画にも取り組んだ。日本にはそれまで裸体画というジャンルがなかった。