ウルトラマン・メビウス

小腹が空いて、会社の簡易台所に行って、
お湯を沸かした。
テレビをつけたら、ウルトラマン・メビウス。

いま読みかけの本が堀田善衞「ゴヤ」で、問題の「黒い絵」が終わったところだ。
長年の宿題だったゴヤを読み進めていたところに、
ウルトラマンを見て、
なるほど、物事の発見と納得の仕組みはゴヤでもウルトラマンでも同じようなものだったなあと思いつつ、
しばらく眺めていた。

むかし、ウルトラマンについての興味は、ひとつは、ウルトラマンの「仕様」がどの程度のものなのか、についてであった。
いろいろなデータ表があったような気がする。
それ以外の、物語としての進行は、いくら子供でも、水戸黄門と同じなのだと知っていた。
たとえば地球防衛隊の仕組みとか、そんなものが面白かったし、
友達同士の間で共有したり、優越感を抱いたり、そんなアイテムだった。

今日見たところでは、なんと地球防衛隊のような人たちが、
テレビを通じて、人類に呼びかけている。
いままでウルトラマンに助けられてきたが、そろそろ人類もできるだけの努力をしようと言うのだった。

これが時代の空気である。
我々が呼吸している空気の中でしか、正義も地球防衛も、語ることができない。
まがまがしい侵略者を描くことすらできない。

私たちも多分、そんな風にして時代の空気の中で育ってきたのだ。

子供時代には、自然な攻撃性があり、それに形を与えられて、
ウルトラマン兄弟たちの必殺技になったり、
逆に三分間の制限にハラハラしたりしたものだろう。
思えば、子供は攻撃性むき出しだったと思う。

話はひたすら侵略する者と守る者の物語で、考えてみれば、自陣で戦う専守防衛だった。
いつも東京タワーが破壊されていたのだった。

ウルトラマンはアメリカ軍のメタファーだったのだといま気付く。
軍事オタクの石破氏のような議員さんとか多分、こんなワクワク感なのだろうなあと想像する。

ひたすらウルトラマンを頼って、一回一回を切り抜けていればよかった時代を過ぎて、
最近は自分たちが立ち上がる物語になっているらしい。
時代の空気、とため息が出る。

子供時代の攻撃性を考えてみて、やはり本性から戦争が好きらしいと思うのだ。
その体験というか認識を元にして考えると、
「心の理論」みたいに他人の内面を推定するとして、
やはり他人の心にあるのは、侵略の欲求であり、横取りの欲求であり、攻撃の欲求であろうと納得してしまう。

平和共存と言うが、自分が優位に立った上での共存でしかないのだろう。
変わったのは、アメリカ軍であり、仮想敵国であり、日本であり、
時代の空気であり、ということだ。
本当はその根底にある歴史的条件、物理的、具体的条件を考察したいのだが、
現在進行形での考察は難しいようである。