純粋に試合をして強いということと
八百長もふくめて総合力で強いということと
どちらが強いと言えるのだろうか
人間としての総合力とは
練習環境を整え
栄養管理に成功し
家族親類友人の全面的な援助を引き出し
金銭にも恵まれ
まあその他を含めての総合力である
その中でならば
最終的に試合に勝つということを目標にすれば
いろいろな次元の作戦戦略を選択することができるはずではないか。
たとえば売れる本を書いてマスコミに名前を浸透させたいと願ったとする。
まず売れる本をプロデュースすることであるから、
ゴーストライターを使ってもいいし、
ネタをどこかから買ってきてもいいし、
よくあるようにアメリカから仕入れてもいいわけだ。
そのことで、自分で思いついたことを自分で書いて、
それが世の中でどのくらい売れるかに挑戦したいというならばすでに負けているのだが、
目標はそこにはないのであれば、「総合力」で勝負したっていいわけだ。
いやむしろ、狭い意味での実力にこだわらずに成功の道を選ぶことができるのだから、
それは人間としての総合力というものではないか?
そのような考え方も成り立ってしまうと思う。
音楽を売りたいと思ったとして、
どんな人たちが買ってくれるかと考え、
ある種の動員をかけることも可能な人たちを対象にして
作戦を考えたっていいわけだ。
音楽として価値がどうとか、そんな次元の問題ではなく、である。
いろいろな人の口を封じておいて
音楽を売り出し八百長的な論評を並べさせる、
それだって人間の総合力と言える。
だって人間の社会はそのようにできているのだから。
悲しいようなばかばかしいような、社会である。
汚い勝ち方をして、それでも嬉しいかと、批判することはできるけれど、
それは負け犬の遠吠えでもある。
端的に言えば政治家などはそんな世界だろう。
総合力を駆使して選挙に勝ち、
総合力を駆使して地位と人脈を築く、
そこには卑怯もなにもない、ただ勝ちと負けがあるだけだろう。
八百長は卑怯だけれど、
八百長ができるならば「強い」のだと思う。
それは人間としての総合力の戦略である。
負けた立場の私としてはそのように思う。
卑怯な奴が勝っているのだと負け犬の遠吠えをしたとして、
それを卑怯と思うか、
人間の総合力だと思うか、
立場が違うだけである。
八百長野郎にさえ勝たなければならないのだから
なかなかきつい戦いなのである