○小説を書くとき。準備期間の後、ある時間をかけて文章を書く。その草稿を、最初に要した時日の三倍かけて、二度、三度と書き直す。
●書き直している間に、芸術の度合いは高まる。しかし一方で、その外観で読者を拒絶する場合があり、または読者が作品を拒絶してしまう場合もある。私にとっては、その段階で、作品がグロテスクな何ものかに変化してしまうと感じられる。わたしは拒絶を感じる。私が欲しいのは、その最初の思いつきなのだろう。
●たとえて言えば、キュビスムのピカソのようなものになる。それはそれでいいのだけれど。わたしはもっと印象派的なものが好きなのだ。文章にしても同じ。
●ジャズもいいけれど、酔って歌えるような「歌」が好きだ。
●そうは言いつつ、私もある夜はジャズを聴く。
●思いつき→平易な表現→芸術的表現 というような、単純な系列を考えるとして、読者は何を求めているだろうか。
●一番難しいのは、最初の「思いつき」を得るだろうと思う。これほど情報が流通し反復されている現状からすれば、何か新しいことを思いつくなどということは難しい面もある。
●また一方、メタ批評はいつでも可能なはずで、現在ある情報を素材として、それらを加工してみせることはできないことではないだろう。しかしそれがどの程度本質的に重要な新発想なのかということだ。
●ごまかしたいのなら、小説の主人公の名前を変えて、職業を変えれば、それでもできないことはないのだ。
●その上で、「芸術」的な装飾を造り上げればよい。たとえば、絵画で言う静物画は、特に何か新しい着想があるわけではないのだ。いかに描くかの点で、何か新しい着想があればそれも楽しいが、それさえない場合が多く、結局、何を思いついたのか、どんな技術をアピールしたいのか、はっきりしないことも多い。
●一番求められているのは「思いつき」なのだけれど、この時代では難しいものに属するだろう。思いつきは表現の形と独立しているものではないようで、たとえば俳句という形が、思いつきを促し、結果として、表現と着想は、一緒に現れることも多い。
●思いつきをどんな箱に詰めて提示するか。思いつきも陳腐だし、箱も見飽きている、そんな時代になっている。
●書き直しのプロセスを公開してしまうという形の芸術も可能であり、楽しいのではないかと思う。作家の古い原稿が出てきた時に、書き直しや編集の具体的な細部について研究が始まったりする。そこに興味があることは分かっているのだから、作者による、推敲課程の研究として、提出したら、これもまたひとつの芸術になるのではないか。
●昔、田中康夫が注釈を大量に付加する形を提示した。そんな感じの試みとして、推敲プロセスを辿ることによる芸術プロセスの提示ができないものか。