グールドのモーツァルト

芸術の表現を語る時、
「何を」と「どのように」とがあり、その幸福な一致が目標なのだといわれる。

グレン・グールドがモーツァルトのピアノソナタを弾く時、
モーツァルトの音楽と
グールドの弾き方は
どうもあまりぴったりしないようなのだがと言われることも多いだろうが、
それでも、グールドらしさの刻印がくっきりときつく押されていることは間違いない。

これでいいのだと思う。
芸術の表現における多様性を目指し、
社会としては多様性を保持する方向を目指す、
それでいいのだと思う。

現代のように情報が重複しつつ駆け回り、
真実の一時情報は少なくなり、
それでも手を変え品を変え情報が分散して行くなら、
ゴツゴツするくらいその人らしい表現の仕方があってもいいと思うのだ。

グールドはグロテスクなくらいにまでグールドである

そのように表現様式にこだわる時、
たとえば顯微鏡が新しい世界を開いてみせるように、
突然新しい世界が開けるのではないかと思う。

表現様式は、単に、表現の仕方ではなく、
世界の発見の仕方なのだ。

それは
世界観の発見なのである。

それは究極の成功例であるが、
少なくともその程度の意気込みを持って
表現様式にこだわりたい。

グロテスクだけどリアリティにあふれている。