長崎市長がなくなってしまった。
冥福を祈る。
事件の意味について新聞の主張しているところでほぼ全部尽くされているし、
私としても賛成である。
暴力に反対、言論の自由をすべての市民、マスコミの手によって守ろう。
ここから先は長崎市長銃撃事件とは関係のない話。
私は個人的に多くを失ってしまったと述べているが、
実際に何を失って何が残ったか、考えた。
死んでしまう人に比較して、
私には何と多くのものが残っただろう。
命もある、とりあえず生活するだけの資産もある、友人もいる、そして未来への自由もある。
失ったものを数えれば
確かに強い後悔を感じる。
しかしそれでも私に残されたものを考えると、
それこそは本当に私のものなのだとも思える。
いま私にここされたものは実にありがたいものばかりだ。
それをありがたいと思って感謝して生きていたい。
死んでしまえばあの世に持っていけないようなものに執着していても益はない。
古来、文人はむしろ捨てることで、処世の術とした。
また捨てることは、認識の術でもあった。
そうした態度は世俗に生きる家族を幸福にしないから、
しばしば家族をも捨てることになった。
捨てられた家族としても、どうせ付き合いきれない人間なのだから、
捨ててくれてよかったと考えていたものだろう。
捨てられるものならばすべて捨て去り、
なるべく死に近い状態をつくる。
その時点で、未来に届く言葉を語ることができるようになる。
若いころ清潔に几帳面に考えていたことも、
いまは多く忘れている。
しかしそれでよいはずはない。
人生に必要なものは数少ないし、
ただそれだけを大切にして生きればそれでよい。
物質的条件としては単純にした方がよい。