セルフの死と再生の物語
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再生するには死が必要だ
どうにもくだらない人生ならばいったん死んでも悔いはないが
ほどほどのよい人生であれば、いったん死ぬのもなかなかの苦痛である。
そして、その苦痛の後に、苦痛に値するだけの、再生の喜びが得られなければ、
見合わないことになる。
死の苦痛が強かったら、次の再生において、要求が高くなる。
すんなりと死ぬことができたなら、たいしたことのない再生でも、よかったと思えるだろう。
そのような損得勘定がうっすらと頭に浮かんでいる。
蛇が脱皮するとして、ぼろぼろのよろいならすぐにでも苦痛なく捨てられる。
やっとのことで苦労して手に入れたよろいなら、脱ぎ捨てることの苦痛が大きい。
しかしそれでも脱ぎ捨てたいときがあるものだ。
さなぎから蝶になるという美しいイメージを捨てたくない。
さなぎの時期には不安も大きい。それでいいのだ。
鏡でわが姿を見てしまったとき、
さなぎは耐えられるのか?
それでもなお、未来を信じるしかない。
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本当に再生などできるものだろうかといぶかしい。
しかしながら、すでにその道を選んでいるのだ。
再生しないわけにはいかない。
ただ時間はたっぷりとかけようと思う。
大江がスピノザを読んで三年暮らしたように。