フィリピン映画「母と娘」(Anak)

「出稼ぎ」がキーワードになるだろう。

しかしまた、現代日本の社会でも、共働きで、

しかも親の意識が外にばかり向いている時には、

同じような事態が生じるだろう。

「娘」の行動や感情が母や観客をやきもきさせるのだけれど、

その、ちょっとだけひっかかっていて、でも、うまく行かなくて、

素直になれば悪人は一人もいないのだけれど、

といった、もどかしい感じがよく伝わる。実際、そんなものですね、

人間関係は。

これが過激になれば性格障害と言われる世界になるけれど、

この映画ではまだまだ理解可能な範囲と言うことだろう。

それにしてもね、実際、父親との思い出の歌を母が歌って、

それを聴いて娘は涙を流しているのだから、

確かにつながってはいるのだ。

主題歌はAnakで聴いたことのあるメロディーだ。

父親が出稼ぎをして金を送れば、立派な父親といわれる。

母親が同じことをすると、非難される。

そんなことを言っていた。

フィリピンの人々にとって出稼ぎが大きな収入であり、

必然的に、家庭の問題は起こり、

起こった問題の全部が出稼ぎのせいなのかについては疑わしく、

考える暇もなく経済的現実は押し寄せる。

実際映画の中でも何人も貧乏のために生活がねじ曲がる。

しかしまた一方で、出稼ぎでお金を蓄えたら、

そのことが原因となり、家族関係がねじれてゆく。

どうすればいいのか、分からない。

その時その時は、特に欲に目がくらんだわけでもないのだ。

みんながするようにしただけ。

あるいはみんなより少しだけ元気があっただけ。

遠い結末までは知ることができないのだ。

遠い結末。

私ができれば知りたかったのも、それだ。

こんな結末があるなら、

すべての努力も、別の方向に向けていただろう。

母と娘ならば、結局は離れられないとも思う。

これが夫婦ならば、憎しみあって分かれて、それでお終いにもなる。

はかない。

主人公である母は、とにかく感情表現がexpressiveである。

大袈裟で過剰といってもいい。

子供がそのまま大人になったようだ。

しゃべり出すとひっきりなしで、内容はたいしたことはない。

だから、内容を翻訳しても、なぜそんなにはしゃいでいるのか、よく分からないくらい。

しかしその点がまさに、性格の描写なのだ。

このように単純な性格の人間が、

単純に環境に適応しているだけなのに、

さまざまな破綻を経験しなければならなくなってしまう。

見ていてもそれはつらい。

誇張もあるけれど、おおむね、人生はこんなところだと思うのだ。

未熟な人間の未熟な話と感じる人もあると思うが、

私は、このような未熟な人間が幸せになれないのは、

世の中の仕組みが間違っているからだと思うのだ。

未熟だけれど、悪辣ではないもの。