歴史のおさらいを読んでみましょう。
*****
1971年には、哲学者ジョン・ロールズによる平等主義を唱道した名著『正義の理論』が出版されています。ロールズはそこで、配分的な正義の実現、すなわち平等主義原則の私的所有に対する規範的優越を掲げました。
リバタリアニズムは政治思想としてはハーヴァード大学の哲学教授であるロバート・ノージックが1974年に著した『アナーキー・国家・ユートピア』によって確立したといえると思います。この著作でノージックは、われわれは国家という強制権力装置によって、富者の財産権を侵害しながら貧困者を救済することは道徳的に許されないとしました。そして唯一肯定できるのは治安を維持するという最低限度の機能を持った、彼のいう「最小国家」であると結論付けたのです。
社会権を否定し、自由権のみを肯定するのがリバタリアニズムなのです。
ノージックの著作は、ロールズの理論に対する、思想史的なアンチテーゼだったといえるでしょう。
社会主義は高らかに社会権の保障をしますが、それはすなわち経済的な自由権の侵害を意味するのです。ある個人の社会権を保障するためには、別の個人の財産権、あるいは私的所有権を制限する必要性が生じるからです。
1943年には、すでにフリードリヒ・フォン・ハイエクが『隷従への道』を著し、社会主義への警鐘を打ち鳴らしています。
その後、70年代までは社会主義的な思想風潮、あるいは市場の万能性を否定して政府による経済介入の必要性を説くケインズ主義が、支配的な風潮として資本主義社会においても蔓延しました。
このような状態にもかかわらず、アメリカでは自由な市場への政府の介入を否定するミルトン・フリードマンが、自由の価値と、自由市場が社会主義体制よりも人びとをより幸せにすることを『資本主義と自由』や『選択の自由』において訴え続けていたのです。
個人の幸福度を基準として社会の優劣を比較する考えは、功利主義と呼ばれます。ミルトン・フリードマンの息子であるデイヴィッド・フリードマンは1973年に『自由のためのメカニズム』を著し、その後も一貫して、功利主義的な基準において、無政府資本主義のほうが政府の存在する社会よりも優れていることを訴えています。
また経済学のオーストリア学派の流れをくむマレー・ロスバードは、権利論に基づく無政府主義の金字塔を打ち立てています。彼は1981年の『自由の倫理学』において、政府は物理的な強制を伴う存在である以上、倫理的な基準においても存在することは許されないという過激な主張を完成しました。
彼によれば、人間の自由な活動によって獲得された私有財産は倫理的に絶対的に擁護されるべきものです。その権利を税金などの形であれ、わずかでも取り上げるような国家とはすなわち、倫理的にみて強盗団にほかならないと喝破したのです。
*****
岩波書店、朝日新聞の立場である、リベラルは、社会権を大きく肯定し、自由権については、公共の福祉を先行させた上で、限定的に肯定するわけです。
リベラリストからみると、「経済行為とは私利私欲に目がくらんだ金儲け」にすぎないため、あるいは物質的な不平等を拡大する社会的必要悪であるため、大幅に規制するべきだということになります。よって、リバタリアンは過度の私有財産制度の擁護を試みていると攻撃されることになります。
コンサーバティブは、社会権については限定的に承認し、自由権については、最大限肯定します。
福祉国家論者は、国民は愚かで保護されるべきものと考えているようです。
これとは違う次元の分類で、国家主義的思考があります。
歴史教科書などに力を入れているのかもしれません。
そうした動きについては、以下の様な論評があります。
おそらくこれは、外国の言語や文化にもよく通じており、世界的な視野をもつことが多い知識人に対して、一般庶民が日本という言語的にも空間的にも閉ざされた国にのみ生きているからでしょう。生活空間が狭い下流社会に住んでいる人ほど外国人などの他者への偏見や排外意識が強いことは、ドイツのドイツ民族主義集団ネオナチやアメリカの白人優越主義集団KKKなどでも同様であり、歴史的にも社会学的にも事実でしょう。