セザンヌの絵が人々に認められるとはどういうことか。
たとえば、個人の内部でも、
描く自分と、見る自分とに、別れているのではないか。
なぜなら、描く自分と見る自分が一致しているなら、
描き直しを保証するだけで、
その人の考える最高水準のデッサンと色彩効果が出来るはずである。
もちろん、それは多くの人にとっては現実には無理なことだ。
ピカソの線がいいと分かっていても、まねは出来ない。
マティスの色がいいと分かってはいても、まねも出来ない。
なぜか?
一ミリずつ動かしてみればいいはずなのだ。
色彩を連続的に変化させて見ればいいはずなのだ。
天才たちのようにうまくはいかないとしても、
少しは何とかできると思うのだが、
もちろん、出来はしない。
見る目があって、訂正する根気があれば、出来るはずだろう、
あとは自転車に乗るようなものだと言ってしまいたいのだが。
現実には、多くの人は、自分の思った通りに描けない。
何故なのだろう。
実際は何がいいのかわからないでいるのかもしれない。
何がいいのかわからないでいる人に、
ひとつの解を提示するのが芸術なのだろう。
何がいいのか分かること、
そうした自分の解に自信を持つこと、
その点で自分を信じること、
それが芸術家だろう。
そのことと、人々に広く認められることの間には実は関係がないだろう。
広く認められるということはつまり、
脳の共通部分に働きかけているだけであって、
多くの人に共通の反応をひきおこすことが出来るというに過ぎない。
たとえば快感でも不快感でも、新規さでも安心感でもいい。
だから、芸術家は、他人の評判など無視していいのだ。
自分でいいと思うものだけがいいものなのだ。