フロイト先生は精神的発達と性的発達を
密接に関連付けて考えたのだと思うが、
フロイトの生きた1900年当時と、
2000年代の現在では、
精神的・性的環境に相当の違いがある。
それをどの程度大きいと考えるか。
ある父親は、語る。
最近思うが、子供に携帯を持たせているのは、
歌舞伎町の真ん中に放り出しているようなものだ。
あるいはすでに、歌舞伎町の店の中に連れ込まれている。
携帯を持たなくても、すでにそのような世の中である。
テレビなんかをみせたらおしまいだと本気で考える親は少ないだろう。
それくらい、おかしなものが当たり前になっている。
とめどもないイメージの洪水。
おびただしい反復。
意味の骨折したメッセージ。
これではこころは健康に育たない。
フロイトの目が観察した精神性的発達は、どのようなものだったか。
それは現在の日本の精神性的環境とどのように違うか。
どのように似ているか。
すぐに言えるのは、
露骨なイメージが溢れ返っていること、
一方で、温水シャワーが常時使える環境であること、
石鹸がいつもあること。
男女ともセックスに抵抗が少なく、
妊娠時も堕胎が容易であること。
日本はそんなに寒くないこと。
常時肌を露出するほど暑くもないこと。
誰でも日本語が通じること。
フロイトのウィーンはすでに歌舞伎町で、
世界のどこでも、人間がいれば、そこが歌舞伎町なのかもしれない。
繁殖としての性ではなく、
商品としての性と大きく位置づけることができるだろう。
マーケットで価値を決める、
新自由主義の原則がここにも見えている。
肉体としての性、快楽としての性、繁殖としての性は、限界がある。
緊張と弛緩の反復がある。
商品としての性には、原則として、限界がない。
緊張だけがある。
いずれにしても、2007年的性的環境は史上なかったものに違いなく、したがって、
現代人の精神性的発達も、史上なかったものである可能性がある。
性と強調しなくてもいい。
差別であったり、イジメであったり、単純な嘲笑であったり。
人生の初期に接するのが、
母と子の間に生じる温かな交流だけではないことは明らかである。
範囲を世界中に広げれば、
毎日のように悲惨な事件が起こっている。
起こっていない日は、どこかで起こっていないか、もっと探せば、
きっとどこかで起こっていて、報道機関はそれを探すのが仕事できっと見つけてくるのだから、
1900年の昔には、100年に一回程度しか起こらなかった大事件が、
今では毎日報道されている。
自殺する人が日本だけでも年間3万人を超えるというのだから、
一覧表にすると、今日も、100人弱くらいの人たちが自殺していることになる。
もちろん、それは統計数字であって、実数は、もっと多いはずだ。
信じられないような事件が毎日のように起こっているという、
信じられないような世界。
フロイトの昔は単に知らなかっただけだといえば、そうなのだけれど。
知ってしまえば、かなりつらい。
赤ん坊も、笑ってばかりいるわけにはいかないだろう。