檀れいがお百度を踏む場面がある。
どうしようもないとき、
自虐を実行して見せて、
神様を動かそうというのだ
と意地悪に解釈できるかもしれない。
これって、心の根っこでは、BPDじゃないですか。
祈ることと神様と取引することは違うでしょう。
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壇れいのお百度の場面は感動的で、わたしはとっても肯定します。
お百度の心理の100%を自虐とか取引というのはもちろん間違っていますが、
5%くらい、そんな気分がないかなと、厳しいことを考えた。
映画を見ながら
昨日買った半額おにぎりを
何個も食べようと思っていたのだけれど、
心配になったので、電子レンジでかなり熱くした。
祈るしかない場面も人生には多くある。
その祈りは美しい。
動物は祈らないだろう、多分。
欲求はするだろうが、
祈ることはないだろう。
言葉がないし、未来をイメージすることは難しそうだ。
いや、そうでもないか。
親ネコが、調子の悪い子ネコをぺろぺろなめていたりするのは、
そのまま祈りだろうな。
ネコにはただ言葉がないだけだ。
人間も、言葉で祈りながら、ひたすら背中をさすっていたりする。
昔から、絵の題材は祈りであることが多い。
描くことで祈り、
絵を見ることで祈る。
だから宗教と強く結合する。
詩も歌も祈りであることが多かった。
詩経など典型的。
呪術と結合している。
ただ無力に透明になって神に祈っているのではなく、
術を使って神を動かそうというのだから、
どうかとも思うけれど、
それほど強く思っているということだ。
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小細工している感じの1%が気になるのだ。