障害者施策における根本思想。
私たちのいないところでわたしたちのことを決めないで。
当事者は大切。
勉強して、自分が理解できるよう質問して、
反対して賛成して、
意見を言えばいい。
当事者が理解できるように説明できる人が少ないのだ。
隠し事があるからでもあるし、自分でも理解していないからでもある。
障害者でなくても、
地域住民という当事者でも、
病気や事故の当事者でも、同じ。
理想的には、同じ情報を同じ程度の理解力を持って議論を出発し、
政治的に自由か保守か、経済的に自由か平等かといった、
価値意識の違いを明確に戦わせて、結論すればよいのであって、
ここでは、当事者であるか否かは、誠実である限り、
限りなく関係がない。
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当事者でない人は、当事者であることを想像してみる、これが当たり前の第一歩。
しかしまだある。当事者は、自分たちの立場だけを言えばいいのではない。
当事者以外の人に世界はどう見えているか、
たとえば予算編成担当者には、全体の情勢がどう見えているか、それを当事者に理解して欲しい。
そうでなければ、いつまでも頭の悪い、部分事実拡大主義者でしかない。
予算編成担当者と同じだけ勉強して、その上で、当事者の側から、
「あなたの立場も分かるけれど、価値判断として、……の部分がかけている」
なんていってみたいものだ。
あるいは、
「予算編成担当者目線に立ってみましょう、すると見えてくるのは、……という矛盾なんです」
くらい、言えるように勉強しましょう。
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ところで、
子供の目線でとか
障害者の目線でとか
そんな言い方がきらいだ。
共有できる範囲の、
最も高く広い視点が必要なのだ。
子供の目線に立ち、立場に立つことは必要であるが、
それで何も偉いわけではない。
ただの始まりである。
障害者の立場にあるとして、
国家財政のことも、国際情勢のことも、全部勘案して、
どうするかということだ。
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立ち位置という最近の言葉も嫌悪する。
立場の言い換えであり、位置、姿勢、スタンス、などの意味に拡がるだろう。
思想的根拠の内実を語るべきだし、
価値判断の内実をその場で比較して評論したらよいのだ。
立ち位置という場合、命がけの重い位置である感じがしない。
ただ単に役柄でそこの位置にいるだけという軽さがある。
そうではない、人生のすべてをかけた、価値判断の体系が重要なのだ。
立ち位置なんていう言葉は、悪い言葉だ。
思想を鈍麻させる。
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障害者目線というフレーズは分かったから、
中身の議論を聞かせて欲しいのだ。
障害者目線に立って、
養護学校に、
つくる会の歴史教科書が配備されましたと理解していいのか。
誰も逆らえないが誰でも使えるフレーズでしかない。