プレゼンテーションのちから と らしさ

数学や物理で最終的な答えだけ出せという場合には、
プレゼンテーションのちからは必要ない。
むしろ、できもしないのに威張っているやつということになる。

歌を歌うなんていう場合、また人を説得するという場合、
プレゼンテーションのちからを抜きにして語ることはできない。
威張っているやつは多分それなりにすごいんじゃないかと思わせられる。

アインシュタインやホーキングは、いかにも、らしい。
こんな人たちの場合には、プレゼンテーションのちからを遥かに超える説得力であるが、
らしさで得をした部分もあったと思う。

世間には、プレゼンテーションのちからはないけれど、
実力のある人がいるものだ。
わたしなどは、好感を持つ。

どちらかといえば、ものをつくる産業の時代の頃には、
こうした、プレゼンテーションのない、実力のある人の価値があった。
学校の入学試験も、答案という、あまりプレゼンテーションのちからとは関係のない、
アウトプットで判定されていた。

現代日本のような段階になると、
君は何ができるの?ということになり、
プレゼンテーションを試される。
そこではらしさも必要で、
こうした状況に強い人間というものもいる。

昔の入学試験に適応してしまった人間は、
現代を見ていると、めまいがする。
できそうにしている奴をできると思ってしまう、
くだらない社会かと思ってしまう。
もう参加しなくてもいいとさえ思う。

どんなに人に嫌われている奴でも、
この技はあいつにしかできないというのは、もう秋葉原にあるくらいで、
脱製造業社会では、
嫌われているということ自体、実力がないことの一部になってしまっている。

いいもわるいもそのような社会なのだから仕方がない。
そこで空気を読んで、嫌われないように心がけることになる。

やはりわたしはトスカーナに行こう。