絵が下手と運動が下手を比較してみる。
絵を描く、自分は下手だと認識する。しかしそれを訂正はできない。
運動、例えば野球をする、自分は下手だと認識する、しかしそれを訂正はできない。
下手だと知ることと、訂正できるということとは、かなりの距離があるらしい。
さてそこで、訂正に必要な手順を考える。
野球の場合には、実にたくさんの要素があって、簡単ではないのはすぐに分かる。
絵の場合にはどうだろうか。極端にいえば、その線をどこに書くか、の局面に限定すれば、何本か引いてみて、これが一番よいようだくらいの判断はつくものだろう。
どちらの絵がいいかについての判断ももてないという場合は、この論には含めないことにする。
とすれば、絵を描くプロセスを分解していけば、ひとつひとつについて、どの線がいいか、どの色がいいかを慎重に選ぶことができるはずで、
訂正の機会が保証されている限りは、自分の納得の行く線と色を置くことができるはずなのである。
だとすれば、それはそれなりに満足できる絵になっているはずである。
一般に、絵を描くときに感じることであるが、自分の描いた絵を、いいものとは思わないにもかかわらず、自分は書いてしまうという、おかしなことである。
内部に、いい絵と悪い絵の基準があるのに、悪く描いてしまうのはとても腑に落ちないのだ。
それが運動のように、瞬間反応の熟練を要するなら、
よい動きを理解していても、それを実行できるまでにはまだ努力が必要なのだと分かる。
絵画の場合、ゆっくりやっても構わないと言われているとすれば、ただ、美醜の判断部分だけが働くはずなのである。
しかし実際にはそうではない。セザンヌがいいとか、モネがいいとか言っていながら、
自分が描くものは、小学生の落書きでしかない。
描く時は美醜の判断回路は停止しているかのようである。
ここがおかしいのだ。
時々刻々、線を吟味しつつ描くならば、もっとましなものになるはずなのである。
例えば、描画ソフトで、いったん描いた線を、つまんで、曲率を変化させたりできる。
うまい絵を描けないはずがない。
何がいい絵かについての概念が頭の中にない人にとっては、所詮無理なことであるが。
何がいい絵であるかは、分かっている。
なぜ自分はいい絵が描けないかは、分からない。
この不思議な不一致を何とか説明できないかと思うのだ。
可能性のひとつとしては、何がいい絵であるか、本当は何も分かっていないのだという場合が考えられる。見当違いの部分で感心しているわけだ。これは仕方がない。
もう一つの可能性としては、いい絵を理解する部分と、絵を描く部分とは、脳の中でかなり離れた場所に存在していて、共同して働くなどということはできないというものである。
どうも描く一瞬前には、判定脳は思考中止しているようだ、そして描かれた途端に、活動を再開する。そんな感じがする。