安岡章太郎「海辺の墓標」「愛玩」

安岡章太郎「愛玩」
これは昔学校の教科書で読んだ。
中学校だろうか、国語の教科書だ。
当時私は理科少年で理想は高かった。
この文章は、ある種のユーモアはあるけれど、
精神の達成としては低次元の段階にとどまっているものと感じていたと思う。
今回久々に読む機会があり、
これは自分のような中学生には分からない種類のものではないかと思った。
分からないからつまらなかったし、
低次元のものだと感じたのだと思う。


しかしやはり格調高いかと言われればそうでもないのであって、
この程度のレベルのものであっても、
暇つぶしとして私は受け入れているという、
私の現状のレポートにはなるのだと思う。
この程度の低エネルギー状態ですということだ。


安岡章太郎「海辺の墓標」
こちらは母親が精神病院に収容されて、死亡するまでの物語で、
途中に一家の歴史なども挟み込まれている。
精神病院の描写は面白かった。さすがに文学者である。
精神病についての感じ方と反応の仕方、これも面白かった。
戦後の状況、これも興味深かった。
それで、どうなのか。
いまの私にはやはり人間の死の物語だと思う。
一人の人間が死ぬということ、死が家族と周囲にどのように受容されるかということ、
その物語だと思う。
多くの風景描写のテクニックと同じく、
筆者も風景の中にいま自分が生きている現実の解釈のヒントをもらったり、
自分の思考や感情の形象化を見たりしているのだ。


死は、社会で機能している「制度」とか「神話」を無力化する。
無力化した後にむき出しの「物体」として人間が出現する。
そんな物語だと読める。