ソニーの「世界遺産」
今日はオーストラリアの様子。
映像の世界はすばらしい。
実際に行ってみても、こんなに美しくはないことも多い。
多分、20回に一回くらいは、映像よりもすばらしい感動がある。
根本的に、旅は疲れるし、時間に追われるということもあるだろう。
実際の感動は映像だけの感動よりも数段すばらしい。
しかし映像よりも美しいものに出会うには、
それだけこまめに足を運ばなければならない。
アボリジニが雨乞いの踊りをしている。
三人くらいしかいなかったから、
番組用に演じて見せたのだろう。
雨乞いの踊りということで、なんだかいろいろと考えさせられた。
それは彼らの世界観の中では違和感なく適合しているだろう。
現代の私たちも祈りというものをする。
たとえば甲子園のスタンドで女子高生たちは、ヒットを祈っている。
雨乞いと同じである。
あるいは男性は女性の安産を祈る。
祈ったから実際に物理的な力になるとは、今のところは考えられていない。
いろいろな理論はあるれど。
しかしそれでは、こんなにも通時的で普遍的な祈りというものは、一体なんだろう。
無駄なのなら、進化論的に行って、淘汰されてもよいものだったはずだ。
それがどうして残ったか。
祈りが物理的な力に転化するという論点がひとつ。
しかしそれは現状では「トンデモ理論」に属するので取り上げない。
わたしはすきだけれど。
もうひとつは、心理的になにか有用な面があるのではないかということ。
仲間のために祈る人間の集団と、仲間のために祈っても無駄だと信じている人間と、
どちらが生存可能性が高いか。
甲子園で応援されている選手としては、やはり、祈りをひしひしと感じることなる。
その効果なのだろう。
つまり、甲子園の祈りは、選手を激励する。
雨乞いの祈りは、農民を激励する。天に何か届くわけではない。
どちらも、人間から人間への、メッセージである。
だから、たった三人で、テレビカメラの前で行う雨乞いは、異様だったのだろう。
集団の熱気の中で、もっと言えば、集団の狂気の中で、
儀式は行なわれ、集団は、納得するのだろう。
そのことで思い出されるのは、
人に知られると無効になるという祈りがあることである。
お百度参りとか、何かを我慢することとか、茶断ち、酒断ちなどがあり、
これは他人に対する心理的効果はないのであるから、
もっぱら自分を安心させるのに役立ち、
強迫性の心性に近いものになるだろう。
儀式は一般に、強迫性の心性に近い位置にあるのだが、
集団化すると病理性は薄められる。
個人化するほど病理性が目立つことになる。
これもおかしいといえばおかしく、不思議である。