貧しい者は幸いである。
その本当の意味がいまだにはかりかねている。
いくつかの次元で、
正しい解釈がありそうである。
あるいは、この言葉が伝えられる理由を説明もできそうである。
心の貧しい者は幸いであるという解釈でもよい。
現実に経済的に貧しい者は幸いであるという解釈でもよい。
しかし本当にそうなのだろうか。
貧しい者は幸いであるか?
富める者は不幸である。
豚のようだと形容されて、豚もいい迷惑である。
やせたソクラテス?
ソクラテスの頭の中はガラクタで一杯だったかもしれない。
ソクラテスの食べたものを作った人に
幸福を割り当てたい。
ソクラテスは奴隷制を反省しなかっただろうが、
千年後、わたしたちも非難されているだろう。
なにが悪いのか、
ひとつの時代が終わらなければ、分からないのだろう。
無駄な話だ。
謙虚になって教皇の話を聞くのもいいが、
無謬であるとは信じない。
信じすぎるのは一種の奴隷である。
信じないのは、こころの貧しさである。
どちらも幸せではないだろう。
他の生物を食べなければ生きられない悲しみのようなものが、
ここにもある。
申し訳なさがある。
貧しい者は幸いである。
そう言い聞かせながら、
経済的にも心理的にも
富む者であろうと励んでいる。
手放すことができる人はめったにいない。
そして不幸の因果が始まる。
もうその先は考えない方がいい。
人間の限界なのだと決めて、
皿でも洗った方がいい。