世間で、いろいろな工夫があり、
商品を工夫したり、売り上げを伸ばそうと販売戦略を練ったりする。
基礎研究室では、基礎実験が続けられ、
応用科学の教室でも、さまざまな研究。
しかしそんなことがどうしたというのだろう。
発見されるべきことならば、いずれは発見される。
真実はいつでもそこにある。
時々消える真実ならば、しばらく知らなくても、不具合もない。
いつも一貫して真実であることならば、知らなくても自動的にそうなるはずで、
知る必要はまったくない。
第一、なにも知らなくても、うちのおばあちゃんは幸せに生きて、死んだ。
古来多くの人がなにも知らずに生きて死んだ。
それで充分に幸せだった。
むしろ円満な幸せの術が必要である。
どうしてあんなにもつまらないことに人生を捧げることができるのだろう。
つまらないことというのは失礼だ。
たとえば、体操のお兄さんにしても、苦労はあるだろう。
ペットを語るときは、かわいがりの語りでもあり、苦労の語りでもある。
相撲で、かわいがりといえば、虐待のことであるが、
ペットの場合に、似たことがいえる。
科学発見というものは、時間と地域の歴史性を無にするもので、
いつかは誰かに発見されるものである。
その「誰か」に、誰が代入されても、たいして違いはないのだった。
わたしにとって何か価値ある行為があるとして、
そのことと、いま書いた価値のない行為を比較して、
本質的な差はないだろうと思っている。
なんといえばいいのだろう。
歴史の一本の線上に数々の事件があり、その中の、ひとつの当事者になることの、無意味さを感じてしまうのだ。
そのように相対化され、one of them であることを認めることがつらいのだ。
放っておいても、いつかだけかが、見つけるでしょうという、空しさ。
そして、その発見というものは、
原理的な修正ではもちろん、ない。
たとえば、ある病気に関係した遺伝子が具体的にどれであるかを特定すること。
どれかに決まっている。
誰かが見つける。
それだけのことではないか。
それだけのことにどうして一所懸命になれるのだろう。
わたしだけにしかできない変なものを
この世に出現させる方が、よほど自分の気分に合っている。