チベット報道を眺めていると
チベットの人たちの困惑も
深いと感じる
五体投地と言って、尺取虫のように、地面を進み、
聖地までたどり着く。
一族の中から僧を必ず一人出し、
その人を通じてダライ・ラマの教えが浸透する。
ダライ・ラマの写真がいつくも貼り付けられて
風にひらひらしていた。
宗教にも文化・文明にも発展段階というものがあり、
一足飛びにはいかない。
だんだん成熟していくしかない。
キリスト教がそうだった。
中国共産党による悪い行いもあるが、
カトリック教会による悪い行いの歴史的総体と比較すれば、
まだまだと思う。
どちらがいいというのでもなくて、
発展段階が違うのだと思う。
これはマルクスのいうようなことで、
むしろ、むしろ中国共産党が言いそうなことだ。
チベットの女性で英語でインタビューに答えている人もいた。
中国共産党を非難している言葉で、
それはそうだと思うが、
チベットの現状を見てみれば、
自決の原則がいいのか、どうか、
なにかもっと知恵がありそうな気もする。
その知恵は、報道では切られているのではないかと思う。
行き着く先はアメリカで、
自由と民主主義とが正しくて、
キリスト教のことは強くは言わないが根本的には
当然の前提として考えているようなところがあると思う。
現在のようにアメリカドルが基軸通貨としての威信を失いかけているときに、
やっとアメリカの、歴史の中での姿が見えてくるのだと思う。