昔から、社会主義の系統は、結果の平等を重視し、
自由市場主義の系統は、機会の平等を重視すると、
初歩の教科書に書いてある。
どうせ結果が平等なら、人間は働かないと、
インセンティブ主義のリバタリアンはいう。
そんなことはないはずで、どうせ結果が平等でも、
やりがいがあるなら、人は一所懸命になる。
人のためになるなら、一所懸命になれる。
そのことは信じてもいいのではないかと感じる。
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一方、自由市場主義の、機会の平等に関して言えば、
それは一種の理想であり、絵に描いた餅である。
機会の平等の典型的なものと思われている
入学試験にしても、
知識や技能を身に付けるプロセスを考えれば、
まったく平等ではないのだ。
東京の金持ちに有利なようにできている。
東京大学学生の親の収入が最近は高いといわれているが、
昔は他の大学に比較して高くなかったとしたら、
その方が不思議というものだ。
戦争前の状況を考えてみれば、
帝大生の親は金持ちだったに決まっている。
戦後の一時期に、一時的な機会の平等が実現したに過ぎないだろう。
資産家も権力者も排除され、
その空白部分に誰を入れたらいいのか、
民主主義的教育、平等主義的な教育が行なわれていた一時期がある。
その頃が、機会の平等に一番近づいた頃だろう。
イギリスではかなり階級的で、パブリックスクールは、
誰にでも開かれているものではない。
フランスでは、極端なエリート主義。フランスの支配層に
外国人の遺伝子がどれだけ入っているだろうか。
アメリカでは、もう少し才能を広く選抜する仕組みがあるように思う。
もっと極端に何もない国は、
やはり人材の発掘から考えないといけないのだろう。
支配層が、自分たちの遺伝子だけでやりくりできると思えば、
その範囲内でしか交配は進まない。
外部にはっきりとライバルがいて、
もっと頑張らないといけない場合には、
広く優秀な遺伝子を求めることになる。