けんかと戦争の違い

動物はけんかはするが戦争はしないといわれ、
人間だけが戦争をするといわれる。

人間の知能は、意図的な殺人を可能にした。
その点では、動物の場合は、殺人小説、つまりミステリーは成立しない。
人間だけに成立する。
やくざ映画は動物の場合にも成立する。縄張りと女をめぐる喧嘩である。

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たとえて言えば、
猫とねずみは戦争をする。
猫同士はけんかをする。

猫はねずみをかわいそうと思わないし、
単に好奇心から、またはエクササイズとして、
または空腹ゆえに、または自分の優秀さを誇示するためのシンボルとして、
ねずみを咥えて帰ってくる。
口は血まみれである。

猫同士は多少、縄張り争いというものがあるようだ。
それは殺し合いにはならないし、
どっちが優位か決着がつけば、
それでいい。

人間同士が戦争をするのは、とてもおかしなことなのだ。
同じ人間の部族間の争いが、まるで、猫とねずみみたいに、異種間の殺し合いのようである。

同胞感情が湧かないというべきか。
同じ人間の形をしているのに、
言葉が違い、宗教が違えば、皆殺ししてもかまわないと感じてしまう。

なぜなのだろう。

先日、自分の子供がトラックに轢かれそうになって、とっさに自分が身代わりになり、足を骨折したという母親の話を聞いた。
そんな行為がとっさにできる。
これはすばらしいことだ。

これを生物学は自分の遺伝子を残そうとする傾向として解釈できると主張する。
利己的遺伝子の仮説で愛他的行動を説明できるというもので、当時は画期的な視点だった。
現在はどういわれているのかよく知らない。

この説でいえば、老人も、似た遺伝子をより多く残すことに奉仕する限りにおいて、
活躍の場面はあることになる。
遺伝子を残すことは本質的な仕事なのだ。

何世代もの後には、自分の遺伝子を残そうとする人たちが残る。
いや、我々がすでにそうだ。
人に道を譲るようにな人は子孫を残せないことも多い。
戦争で死んでいったのは、犠牲的精神の旺盛な立派な人たちだったのかもしれない。

もっとひどい表現を使うと、
生き残る遺伝子は、
同胞に、自分を守るためなら死んでもいいと思わせて、
実際死んで守ってもらえるような特性を持った遺伝子といえるのかもしれない。

兄弟は犠牲的なのに自分は徹底的に利己的であれば、
鳩の中に一匹鷹がいるようなもので、
最高に有利だろう。

そのような遺伝子構成を実現すれば、代々を経ても、
犠牲者に支えられる生き残り組みになる。
女王蟻が労働蟻を含んだ子孫を残すようなものだ。

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夫婦喧嘩というものは
普遍的にある。
優越を争うので、けんかの典型である。
相手を立ちあがれないほど叩きのめしてしまうのは、
動物としての本能がどこか狂っている。
強い者が勝つこともあるが、卑怯なものが勝つこともある。
価値の判定については価値観が影響する。
価値観が共有できるなら、優劣の決着をつけて、共存できる。
どちらがより卑劣であったかを競い、
卑劣さの点で屈服するという、価値観の共有もできる。
価値感が共有できないなら、優劣の序列をつけられないから、安定した同居ができない。
その意味で、分かれたほうがいい。
かみさんの尻にしかれたほうがいいというのは実際的な、そして最終の知恵である。
尻にしかれないでいるにはかなりのエネルギーを要する。
その上外で元気に働くことは難しい。

現代で典型的な価値は経済的な価値である。
古典的に典型的な価値は精神的価値である。
両者が共存するのは、精神的価値が経済的価値も生むという例外的なケースになる。
それ以外は、両者の共存に意味がない。
女はしばしば経済的価値だけを認める。

紐として生活する男は、かなりの手管が必要である。
女が逃げないように、しっかりと監視しなければならない。
男は普通はそんなことをしているよりも自分で稼いで、浮気のひとつもしたいと思うものだろう。
女が稼いでいる限り、現代では、女が経済的優位に立つ傾向がある。
それを最後に逆転させて、お前は劣位だから、働いて俺に貢ぐのだと信じ込ませる。
一種のマインドコントロールである。
共依存のパターンは演歌の中によく描かれる。
しかしそれを維持するのはなかなか困難なのである。

その困難をいとも自然にやってのける男女がいて、
よくこんなぴったりの相手を見つけたものだと驚嘆する。
その嗅覚の確かさが、生きることの本質なのである、その人たちの場合。
ジグソーパズルのピースがぴったりはまるようなもので、
唯一無二である。
しかし幸せともいえず、自分たちは不幸とも思わず、である。