青春の始まりにグレン・グールドに出合ったのは幸せだった。
ろくなことがない人生だったが、
これはよかったことの一つだ。
もう一つは鎌倉山のあの家。
パティオがあって、星空が見えた。
今はもう誰か他人が住んでいるだろう。
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昨夜NHK教育でグレングールドの連続ものの第一回。
録画したかったがリモコンがなく、できず。視聴。すばらしかった。
みたこともないような映像ばかり。
いまも部屋の天井からはグールドの演奏するピアノの音が降っている。
長い時間をグールドと暮している。
ある人に言わせると
グールドを流していて読書なんかできないという。
そうかもしれない。
わたしは鈍感だからそれでいい。
キース・ジャレットなどもグールドベルクをめぐって、好きだ。
キース・ジャレットのフランス組曲をよく聴く。
個人的には
バッハの音楽の数学的構造にもたいして関心はない。
関心があるのは読書の環境をいかに整えてくれるかということだ。
後尖、温度、風邪、音楽、湿度、そういったものとして、音楽はあり、グールドが存在する。
専門家に言わせれば、あのテンポの奔放さは許せないほどのものだそうだ。
わたしはグールドのテンポに引き込まれる。
少しずつ少しずつ滑走する、早く、遅く、滑走する。
そしてある瞬間、離陸している。しばらく飛んでいる。
わたしの場合、読書も同じだ。
しばらくは滑走だ。ごつごつしていたり、上り坂だったり、
しかしそのうち離陸している。
作者の筆ののりと一緒に、精神の飛翔と一緒に飛んでいる。
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グールドの音。ピアノの音自体、一音の響き自体。
それが若い頃の私を捉えた。
他にはないものだった。
ピアノに触ったことはあるがこんな音は出なかった。
聴いたことがなかった。
教会のオルガンの系統の音でもなかった。
その対極にあった。
わたしにとって教会の音楽は世俗の極みだった。
宗教の超越性とはほとんど関係のないような
この世の幸せな人たちがボランティアだといって集まっていた
幸せな太った豚が神様の言葉だといって歌を歌っていた
そんな中で孤独だった
超越はたった一人でたどり着く場所なのかと感じていた
そんなときグールドはたった一人で行く超越の場所を示していた
賛美歌は賛美歌でいいと思うようになった
群れることで癒される人たちもいると許容できるようになった
そして相変わらずグールドは鼻歌を歌いながら自分を指揮しながら
ある瞬間、離陸しているのだ
わたしは集団離陸は遠慮したい
たった一人で離陸して飛んでいたい
そのときはグールドのピアノがふさわしい
神、超越、バッハ、グールドとわたしの中では複合体を形成している。
グールドが超越についてどう観念していたかわたしは知らない。
著作の翻訳があるが難しくて分からない。
テレビでどのように紹介してくれるか楽しみにしている。